第6話
その傷を、冷たい氷の手でつっとなぞるように、何も知らないシスリルは言った。
「水道代を下げるとか、馬車の通る道を舗装するとか、そういうくだらないこと話し合う前にさ。どうして、『みんな同じでなくていい』ってきまりを作ってくれなかったの」
べつに責めているわけではなかったが、あまりにさびしい響きをしたその声は、ゼレックの耳に、判で押したように刻み込まれた。大きなことをなしてやろうと走り回っても結局、こんな小さな願いすら聞き届けられないのだ。
二人の間に再び、沈黙が流れた。
空気があみあげた壁をときほぐすために、男はわざと朗らかな声で誘う。
「よかったら、うちに来ないかね」
少年は、少し考えてからうなずいた。
「今日だけだよ。アンタの子にはなれないからさ」
どこまでも毒気の抜けない彼だった。
少年は現在、自分の家というものを持っていないそうだ。いつもあの場所にいたのは、森の中で気ままに暮らしていたからだった。晴れの日はたいてい川のそばで絵を描いて過ごし、夜は木の下で眠って、雨が降れば少し離れたところにあるがけの下の洞窟で雨宿りをする。そんな生活のことをいろいろと聞きながら、ゼレックは少年とともに自分の家へ向かって歩いた。
並んで立つと、身長の差がはっきりと感じられて、こんなに幼い彼が誰からも保護されず生きていることに胸が痛くなる。
「今日だけ」と少年は言ったが、ゼレックは、できればもっと継続的に世話をしてやりたかった。それに、彼には同世代との関わりも欠けているようなので、何とかしてもう一度学校に行けるようはからってやらねば、とゼレックは考えた。
集落には子どもが少ないため学校はないが、隣の小さな町に一つある。都会の学校のように生徒が多くないから、シスリルも少しずつなじんでいけるだろう。
親切のつもりで勝手に先のことを考えながら、ゼレックは、一人の大人として少年に話しかけた。
「シスリル。もう一度、学校へ行ってみないかい。お金のことは心配しなくていいから。隣町の小さな学校だよ。人数が少ないし、優しい子ばかりだと聞いたことがある。きっと、今度こそうまくいくさ」
と。
シスリルは、みなまで聞かないうちに、ふんと行儀の悪い返事をした。
「いやだよ。学校なんて行かない。もう二度と行かないよ。あと二回同じこと言ったら、オレもうアンタと口きくのやめる」
よっぽどひどいめにあっていたのだろう、学校にはよい思い出がないらしい。今はまだ子どもだからそれでも何とかなっているが、学ぶことを途中で放り投げてしまった彼のその先を思うと、ゼレックは心配でたまらなかった。
けれど、少年が口を開かなくなっては困るので、それ以上学校へ行けと勧めることはしなかった。
集落のはずれのゼレックの家は、周囲から浮いているように見え、遠くからでも目立っていた。やはり木の家にしておけばよかったな、とゼレックは今さらながら後悔した。
「ここだよ、私の家は」
カギをあけ、ドアを開きながら彼は言って、シスリルを中へと促す。
少年は、拾われてきた子猫のように、おそるおそる足を踏み入れた。ふわりと、かぎ慣れない新しい家の香りが彼を包み込む。
「アンタの家、オレが住んでた家とずいぶん違うね」
まぶしいものでも見るような顔で家の中を見回して、シスリルは言った。確かに、彼の描くそぼくな木の家とはだいぶ異なっているだろう。ゼレックの家は、都会の家に近い形で造られているのだから。
「まだ片付けもすべて終わっていないが、まあ、ゆっくりしておくれ。何もないがね」
男は、ジュースを作るために台所に入った。早朝の市場で見つけた新鮮なオレンジが、冷蔵庫にいくつか残っているはずだ。
ほとんど何も入っていない冷蔵庫の中に、予想どおりちゃんとあったオレンジに、リンゴとハチミツを少し加え、ミキサーにかける。できあがったら涼しげな淡い水色のグラスに移して、冷たい氷をしゃぽん、しゃぽんと落とした。
ジュースを二人分おぼんに載せて、ゼレックは部屋へ戻る。少年は、あの揺りイスのそばにいた。ゼレックが入ってきたのにも気づかず、イスを軽く押して揺らしてみたり、無邪気な微笑みを浮かべて遊んでいる。
人と向かい合っていないときは、こんなにも可愛らしい表情をする子なのだ。ゼレックはしばらく入口の辺りに立って見守っていたが、ふとした拍子に、氷がちゃぷんと音を立てたので、はっと我に返った。
「飲まないかね」
と、シスリルに優しく声をかける。
少年は、驚いてびくっと肩をはねさせたが、すぐにいつもの顔に戻って、
「あ、いる。ありがと」
と、短い返事とともに揺りイスから離れた。
「あのイス、いいね」
と、ジュースを飲みながらシスリルは言う。
新しいものばかりのこの家の中で、唯一思い出の匂いを放っている家具だ。
「ああ。私も気に入っているよ」
ゼレックはうなずいた。
「乗ってみたいんだけど、いい?」
と、少年は訊く。
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