第5話

「最後のは寝室の絵。これは母さんのベッドだよ。オレは自分の部屋で寝てる。父さんとかきょうだいとかはいない。どっちも、生まれたときからいなかった。ここの部屋は、ガラス戸開けたらすぐ庭に出られるから、夜はよく月を見に行ったな。ベッドの下でこっそりトカゲを飼って、怒られたこともある」

 そこに折りたたまれているのは、ごく普通の少年の生活だった。

 明るい声で伝えられる彼の家の様子を、自分の目で見てきたかのように鮮やかに思い浮かべて、ゼレックは幸福な気持ちになった。

「君は、どこに住んでいるの? あっちの、家がたくさんある辺りかい?」

 男は少年に尋ねる。

 少年は、

「今、家はどこにあるのかってこと?」

 と、聞き返した。

「そうだよ。さしつかえなければ、でいいがね」

 ゼレックは、妙な人だと思われないように付け加えた。

 少年のオリーブ色の瞳が、ほんの一瞬、伏せられる。

「もう、ないよ。少し前に燃えた。火事で。オレが帰ったら、もうなかったんだ。まわりに人が住んでないとこだったから、消防士さん呼ぶのも遅れちゃって」

 少年の声は、とがった鉛筆の先で引いた細い線のように震えていた。

 男は慰めることもできず、彼の肩にそっと手を添えた。その手を、子どもがむずかるような仕草で軽く振り払って、少年は続ける。

「家の中に、母さんもいたんだ。オレが絵の具の材料を集めに行ってたときの話だよ。あんなことになるなんて、思ってなかったのに……っ」

「つらいことを思い出させてしまって、すまない」

 男は、自分も胸が締めつけられたようになって、謝った。

「べつにいいよ、アンタのせいじゃないんだしさ」

 少年は、うつむいたままで気丈に首を振る。彼くらいの年齢なら、まだ事実を完全に受け止めきれずに泣きわめいても無理はないのに。悲しみをけんめいに押さえ込もうとする姿が、ゼレックにはひどく痛々しく見えた。

 思わず名を呼びそうになって、そういえばまだ彼の名を聞いていないことに気づく。

「ところで君は、何という名前なの?」

 少しの間を置いて、空気を変えるようにゼレックは尋ねた。

 少年は、微かに潤んだ目を上げて、

「シスリル」

 と、短くぶっきらぼうに答える。

 発音しにくい音が並んでいるが、なめらかでさらりとしていて、涼やかな彼によく似合っていた。

「学校には行ってるのかい」

 ゼレックは、もう一つ気になっていたことを訊く。

「行ってない。昔は行ってたけど、もうやめた」

 シスリルはそう言って、草にうずもれる足のほうに視線を落とした。今度は、悲しみではなく苦痛に近い表情が、あどけない横顔に宿っている。

「オレ、前は街にいたんだ。ラファーレって街」

 ゼレックが尋ねなくとも、少年はいきさつを話し始めた。ラファーレは、男が以前いた場所でもある。顔を合わせたことはなかったが、この少年も同じ街で暮らしていたのだ。

 彼は、続けた。

「その街で学校行ってたけど、友達、できなくて。オレ、何か浮いてたみたいで。しばらく通ったけど、だめだった。ものがなくなったり、無視されたり、いろいろあったから、母さんが『引っ越しましょう』って。それで、この森を抜けたところに引っ越してきたんだ。お金なくて、集落のほうに家建てられなくて。……温かくて、いい家だった。燃えちゃったけど」

 話し終えると、少年はふぅっと深く呼吸した。一気にしゃべったので少し疲れたのだろう。何も言わないゼレックが穏やかな目で見ているのに気づくと、彼は照れたように顔をよそに向けた。

 ただ抱き締めてやればよいわけでもないし、年長者の視点に立ったお説教はうとまれるだけ。この年頃の子どもとの距離の取り方は、本当に難しい。

 かける言葉に迷うゼレックに、シスリルは、

「そういや、アンタの名前は?」

 と、今度は自分から尋ねてきた。

 男は、

「ゼレックだ。姓はラインゾールだよ」

 と、名字まで教えてやる。

 名乗ったところで、少年が彼の名を呼ぶことはないように思われた。二人は年が離れているし、彼の性格を考えると、これからも「アンタ」のままなのだろう。ゼレックのほうも、「おじさん」や「ラインゾールさん」と呼ばせる気はなかったので、それでかまわないと思っていた。

 シスリルは、ゼレックの名を一度小さな声で繰り返し、ふと何かに気づいたように男の顔をじっと見る。

「アンタ、もしかして、議員やってた人?」

 と、彼は確信を持って口にした。

 ラインゾールなんて名前は珍しいから、覚えている者は多いのだろう。

「ああ」

 ゼレックは、浅くうなずいた。

 議員をやっていたのは事実だが、自分が納得できるような仕事を何一つできなかったという後ろめたさがあるのも本当だ。社会を変えたいと願いながらも気持ちだけが空回りし、議会では多数決で負けて、古くからいる保守的な議員には意見できなかった。自分の思想を曲げねばならないこともよくあったし、消しようのない無力感が、ばくぜんといつも存在していた。

 志を抱いて手に入れたはずの地位なのに、今となっては、苦い思い出と微苦笑しか残していないのである。


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