第4話
少年は、なおも何か言いたそうな顔をしていたが、ゼレックが何度もわびるので、許す気になったらしい。
ふいにふっと表情を緩め、
「まあ、いいよ」
と、どさりと座り込んだ。
ひざの辺りでちぎられたようなズボンから出ている両足が、草の中にざくっとうもれる。驚いて飛び出してきたバッタが大きくはねた。
ゼレックは、視線から解放されてほっとしたけれど、胸の内に溶け残る後悔は消えなかった。悪気はなかったとはいえ、人のしていることを物陰からのぞくなんて、良識ある大人ならすべきではない。
「でもさ、なんでオレのこと見てたの?」
少年が、パレットと筆を川の水にさらしながら尋ねる。用事をしながらさりげなく訊くのは、彼なりの気遣いのようだ。
ゼレックはそばに腰をおろし、
「本当にすまなかった」
と、もう一度頭を下げた。
少年は、音をたててため息をつき、先ほどまでと比べていくぶん柔らかい印象のオリーブ色の瞳で見上げ、
「だから謝るのはもういいよ。なんでのぞいてたのか知りたいんだ。答えてよ」
と、せかした。
ゼレックは彼の眼の中の、純粋な輝きに出会って、
(ああ、私はきっとこの子に嘘をつけないだろう)
と、思った。
先ほど取り落とした絵を指して、男は正直に打ち明けた。
「その絵を見ていたんだ。あまりにきれいだったから」
初めて少年を見た日の感動がよみがえってきた。
「絵を描いているときの君は、天使みたいだったよ。夢を見ているんじゃないかと、私は目を疑った。最初はその、ぱしゃっという音の正体を確かめたくて来ていたんだけどね。しだいに興味が、君とその絵に移っていった」
ゼレックの話を、少年は黙って聴いていた。水のはねるぱしゃんという音だけが、男の声にかぶる。
こんな子ども相手に緊張する日が来るなんて、思ってもみなかった。それなりに長い期間都会で議員を務め、その前は教師をやっていたゼレックは、人と話すことに初めて背筋をこわばらせた。
少年は、洗い終わった道具の水を切って顔を上げ、そんな彼に向かってにっと鮮やかに笑った。初めて見せた、顔いっぱいの笑みだった。
「大人って、すぐに『天使みたい』とかいうよな。見たこともないくせにさ」
さばさばした声で言って、おかしそうにまた笑う。怒りはもう、かけらも感じられなかった。少々口が悪いところもあるけれど、弾けるような子どもらしさ、底抜けの快活さが、笑顔の奥に透けて見えた。
「君はあるのかい、天使を見たこと」
ゼレックは、ようやく大人の落ち着きを取り戻して優しく尋ねる。
「あるわけないだろ、そんなの」
はねるような声だ。少年は、ボールを打ち返す勢いでそう答えた。
「だから、天使の絵は描かないよ」
軽やかに言って、足をチクチク刺す草の先っぽをぱしりと払った。
思考のテンポが速く、思ったことを率直に口に出すタイプらしい。回転するバレリーナのような、軽快で歯切れのよい口調は、初老のゼレックには新鮮だった。
二人が黙ると、陽の光といっしょに静けさがふわりと降りてきて辺りを包み、木の葉が揺れる音だけが鼓膜を撫でた。
「君が描いているのは、どこかの家なのかい?」
ゼレックは、草を払うのに没頭している少年の意識を振り返らせようと、質問を投げかける。
ああ、と目を上げて、少年は、先ほどの絵をゼレックの前に並べてみせた。ぜんぶで四枚、パズルを組み立てるようにそれらをつなげる。
「オレの家だよ。屋根を取って、切り開いたらきっとこうなるよ」
ゼレックが思っていたとおり、一つの家の内部を部屋ごとに分けて描いたものなのだ。
「とても、温かい家だね」
ゼレックは、最初に抱いた感想をそのまま述べる。
「だろ」
少年は、大きな瞳をきらきらさせて、得意げな表情を浮かべた。
「ああ」
と、男は深くもう一度うなずく。
それに気をよくしたのか、少年は、絵を一枚一枚指さしながら説明し始めた。
「これは、居間なんだけどさ。ここにソファがあるだろ。これは外国製のすごく高いやつで、何代か前のおじいさんが、えらい貴族にもらったんだって。柔らかいのが入ってて、ふかふかしてるんだ。上で飛びはねたりすると怒られるけどね」
きっと、実際にやって叱られたことがあるのだろう。彼の表情は、ちゃめっ気たっぷりで愛らしかった。
「こっちのは台所。母さんはほとんどいつもここにいる。料理の本読んだり、絵を描いたりして。台所がいちばん落ち着くんだって。へんだけど、何か分かる気がする。オレもそばにいると、何となく落ち着くしさ」
三枚目は、子ども部屋の絵だ。少年は、いきいきと続けた。
「これは、オレの部屋。あんまり広くないけど。一人っ子だからじゅうぶんかな。ガラクタ置き場から拾ってきたものとか、改造したり壊したりして遊んでたよ」
彼の生きている場所の空気が、絵を通して伝わってくるようで、ゼレックは口元をゆるめた。
少年はさらに語る。
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