第3話

 少年は、最初の日とほぼ同じ場所で、次の日もまた次の日も、楽しそうに絵を描いていた。あれは彼の、ささやかな日課なのだろうか。

 ゼレックは、声をかけるタイミングも、姿を現わす機会も見つけられず、離れたところからただ見守り続けた。最初の日とは違う木を選び、いけないとは思いながらも、少年に気づかれないよう息を殺して、背後からその様子を目で追った。

 少年は、見られているなどとは考えもしないようだった。光を弾いて流れる川に足をつけ、器用な手で紙の上に色を重ねていく。

 描かれているのは、またしてもどこかの家の中だった。以前描いていた絵と雰囲気がよく似ている。今度のは台所らしく、簡単なつくりのコンロと流しと食器棚がある。ゼレックは、少年の背後の木に隠れていたので、絵の内容や道具をよく見ることができた。

 少年の使っている絵筆は、木の枝と動物の毛でできており、自分で作ったものらしく少しいびつな形をしていた。絵の具は小さなビンに詰められていて、店で売られているものより淡い色ばかりだった。おそらく、自然から色を借りてきてこしらえたのだろう。赤は低い木に咲く花の花弁、紫や青はつぶしたブルーベリーの実、緑やきみどりは葉や草の汁からできているのかもしれない。

 少年が色を塗り終えて筆を川の水につけると、絵の具はまるで土にかえるように自然に混ざりこみ、決して辺りを汚してしまうことはなかった。軽やかな動きで尾を引いて、魚を放つように筆先から色がほどかれていくのを、男は声も発さずに見つめる。

 この少年のすることをながめていたら、一日などあっというまに過ぎてしまうのではないだろうか。こんなに近くで一人の子どもの挙動を追うのは、娘が出て行って以来初めてのことだった。

 ずっとこうしていたい、いや、できれば声をかけてみたいと考えながらも、陽が高くなるころには現実に引き戻されて、ゼレックは自分の家に帰っていった。



 そのおかしな新しい習慣が、できてまもなく断たれたのは、ちょうど六日目の朝のことだ。

 ゼレックが森へやってきたとき、少年は川岸にいなかったのだ。道具と何枚かの絵だけが、昨日と同じ場所に散らかっていた。おそらく、何かを取りに行ったか、誰かに呼ばれて少しだけその場を離れたのだろう。

 ゼレックは引き返す気になれなくて、少年が戻るのを待ったが、彼はいっこうに現われなかった。朝からとても天気のよい日で、川面はいつにもましてきらきら輝き、温かい手のひらでなでてくるような陽射しが、頭のてっぺんに注いでいた。

 大きな葉っぱのパレットに出された絵の具とともに、何枚かの完成した絵が並べられている。

(もっと近くで見たい)

 と、ゼレックは思った。

 少年が戻ってくる気配はないし、辺りには他に誰もいない。

 男はそろそろと木から身体を離し、絵のそばへ寄ってじっくりながめた。草の上に無造作に置かれていた絵はどれもていねいに仕上げられていて、幸福な空間の匂いが画用紙からあふれ出てきそうだった。

 絵はぜんぶで四枚あり、一枚目はソファのある部屋、二枚目は台所、三枚目は子ども部屋、四枚目は庭のそばの寝室。つなげてみればそれは、一軒の家の内側の様子を描いたものなのだとすぐに分かる。

 ゼレックは、自身の懐かしい家を思い出しながら、温かい絵に見入った。身体からふわりと心が離れ、画面の中に吸い込まれてしまいような感覚を味わいかけた、そのとき。

「何してんの?」

 ぶっきらぼうでとげとげしい声が、後ろから彼を引きとめた。

 ゼレックはビクリとして、思わずばさり、と絵を取り落とす。それが草の上をすべって川に落ちてしまう寸前に、まっすぐな腕が伸びてきて、しっかりと受けとめた。

 声をかけてきたのは、あの少年だった。絵を描いているときと違って、ずいぶんつんけんしたイメージだ。陽射しを避けるためか、今日は大きな帽子をかぶっている。麦わら帽子でも野球帽でもなく、つばの部分がひらひらと軽く波打った女性用の帽子だ。どこかから拾ってきたか、家族の誰かから借りてきたのだろう。

 頭より少し大きな帽子の下から、きりりとした目つきでにらんで少年は言う。

「アンタ、オレのやってることのぞいてたろ。こないだからこのへんうろうろしてんの、知ってるんだよ」

 顔つきは幼いが怒るとそれなりにすごみのある、十一、二歳の小柄な身体から発せられた言葉が、ゼレックの背筋をぴしりと打って駆け抜けた。

 少年は、男をうさんくさそうに見上げて言葉を続ける。

「オレ、帽子が風に飛ばされたから拾いに行ってたんだけどさ。そしたら木に引っかかってて。取ろうと思って木に登ったら、アンタがそこに隠れてるのが見えた」

道具を置いて長い間帰ってこなかったのは、帽子を追いかけていたからなのだ。

 ゼレックは、カンニングを見とがめられた学生のような、いたたまれない気持ちになった。最初の日に、「にらまれた」と感じたのは、気のせいではなかったようだ。

 するどい視線と再び向き合った彼の口からこぼれたのは、たったひとことの素直な謝罪だった。

「すまない。悪いことをしているつもりはなかったんだ」

 上手に言い訳するための言葉など見つからなかった。

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