第2話
森から二十分ほど歩いたところに、ゼレックの新しい家はある。集落のはずれにちょこんと付け足されたようなその家は、壁からも床からも真新しい匂いをさせていた。以前住んでいた都会の家の三分の一ほどの大きさしかないが、一人で暮らすにはこのくらいの広さがちょうどいいとゼレックは思っている。周囲の家は木でできたものが多かったが、彼の家は鉄やコンクリートで造られていた。
つい最近引っ越してきたばかりなので、荷ほどきはまだ終わっていない。ゼレックは、軽い朝食を食べた後、積み重ねてある段ボールの箱を一つ一つ開けにかかった。バリバリ、とカッターでガムテープの部分を裂いていく音が、静かな部屋に響く。
家族のいない生活に、ゼレックは未だに慣れなかった。朝の澄みきった空気と、群れて飛び立つ鳥の羽音が、胸の内のさびしさをよけいにかきたてる。彼は、それを振り払うように作業にぼっとうした。
ゼレックは、もともと独りだったわけではない。結婚していたし、子どもも一人いた。都会に住んでいたころは、家族三人で暮らしていたのだが、何年か前のある日、妻が突然、娘を連れて出ていってしまったのだ。彼は、急な坂道をだぁっと下るようにして、ここ数年の不運を何とか乗り切ってきた。
段ボールの中のものをそっと出して、ゼレックはため息をつく。いくつかのコップと皿、置き時計、文庫本、ラジオ。どれも、ここで暮らすために新しく手に入れたものばかりだ。まだ何の思い出もこもっていないそれらは、手に取ってもどこかよそよそしく感じられた。
家族と生活していた家から持ってきたものはほとんどなかったが、どうしても捨てられなかったものがいくつか残っている。娘の幼いころのアルバムと、誕生日に妻から贈られた釣りの道具、それから、大きな揺りイスだ。木でできた揺りイスは、もうだいぶ古くなっていたけれど、長い間ゼレックとともにあった大切なものだった。彼はしばしの間目を閉じて、過ぎ去ったときに意識をうずめる。
都会で議員として活躍していたころのこと。議長の不正が発覚して議会が解散させられたこと。不正には関与していなかったのに、連帯責任で議員の座を追われたこと。苦い記憶もたくさん刻まれてはいるが、それよりもはるかに多くの、美しい思い出がある。
妻と結婚したこと、娘が生まれたこと、娘が初めて言葉をしゃべった日のこと。夫として、父親として生きた日々が、ゼレックの中にふわりとあふれた。
(そういえば、あのころは毎日、この揺りイスに座って、窓辺で楽しいときを過ごしていたっけな)
よみがえるのは、月光の射す夜のことだ。
幼い娘は彼に昔話をねだり、ひざに乗ってきゃっきゃと声をあげ、はしゃいでいた。妻もそばにいて、優しい目でそれを見守っていた。
なかなか子どもに恵まれなかった夫婦がようやく授かった娘は、孫と呼べないこともないくらい年が離れていた。妻に連れられて出ていってしまったときも、彼女はまだ十歳くらいで、不安そうに泣きじゃくっていたのだ。
議員をやめさせられて少し経ったころ、気持ちが荒れていたゼレックはかけごとにのめりこみ、妻と大ゲンカをした。彼女は子どもとともに彼のもとを去り、あとに残されたゼレックもやがて、街での生活に疲れはてて、こうして田舎に移ってきた。
久しぶりに揺りイスに腰を下ろし、背もたれに深く身体をあずけながら、ゼレックは窓の外を見やる。木でできた家々とにんじん畑、あとはどこまでも広がる緑が大地をうめつくしていた。
『パパ、わたしもそのおイス乗りたい』
『ああ、いいよ。おいで、オルシェ。ほら、パパのおひざに乗せてあげよう』
『わあい、ありがとう。パパ、大好きよ』
ゆっくりと単調なイスの動きは、ずっと昔の会話を耳によみがえらせる。
娘が疲れて眠ってしまった後は、妻との温かな語らいの時間だった。あんな幸福な夜は、おそらくもう二度と戻ってはこないのだろう。揺りイスに揺られながら、ゼレックは、根元から刈り取られた稲のような心地でいた。彼の胸を満たしているのは、激しくはない代わりに、じんわりと永遠に続く、波の繰り返しに似たさびしさだった。
静けさの重みを振り切るように、ふいにイスから立ち、残りの荷物を少しずつ片付けて、ゼレックはその日一日を家の中で過ごした。
まだ新しい仕事も見つかっておらず、これといって特にやるべきこともない。昔は少しでも休みがほしかったが、何もすることがない日が続くと、いそがしく働いていたころが恋しくなってくる。
ゼレックは、少年を初めて見た日の翌日もその次の日も、ほとんど同じように過ごしていた。朝のうちは散歩に行き、帰ったら荷物を自分の気に入るように整理するのだ。
ずいぶん時間の流れが遅く感じられたが、森へ行っている間だけはべつだった。彼はあの不思議な少年をどうしても忘れることができず、森へ足を運んではその姿を探していたのだ。
細く澄みきった川をたどり、しゃぱ、という小さな音を頼りに、ゼレックはひたすら歩いた。
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