神野太陽の世界
名前を略すと天国になるので、周りからは「天国さん」と呼ばれていた。
自身の探偵事務所の名前を
彼は、その名に恥じず天国に恋い焦がれる男だった。今の世界ではとてもありふれた願いだけれど、誰よりも真摯に、天国に行ける人生を目指していた。
常に善行を積み、弱き者と手を取り合い、悪意を向けてくる者に対しても応戦より理解を促す。
そんな生き方を続ければ、誰にでも、絶対に、吸血鬼にも天国は開かれるはずだ、と。
果たして自分が天国に行けるのか、太陽にはわからない。
それでも、そういう生き方をしたいと思っている。
飼い主にはペットを見つけてきてやる、浮気の証拠が見つかった夫婦やカップルは、その上で話し合ってやり直せるように、別れは避けられないにしても、互いのその後の人生のためにちゃんと納得できるように。
それが理想のはずだ。
探偵としてヘブンの名を冠するなら、きっとそういう生き方になるはずだ。
自分が天国に行けるかはわからない。
ならばせめて、この地上を天国に近づける。
被害者も加害者も、天国の住人なのだと思って。
その理想を一度は棄てた。彼女の言葉が、流した涙が焼き付いて離れない。
『助けて。太陽。死にたくない。地獄に行きたくない』
目を覚ますとそこは闇の中だった。目元が濡れている。
まだぼんやりとしていた意識に、外界の刺激が飛び込んでくる。目元を拭い、感覚を研ぎ澄ます。
外からの物音。そして微かな匂い。
荒湧駅から徒歩十分のマンション『メゾン・ラ・テュール』。一階は建設当初の大家一家の住まいだったらしいが、現在は二人の城だ。
リビングと応接間が『ヘブン探偵事務所』に相当し、残りが居住スペース。
和洋一つずつある六畳間がそれぞれの私室に。太陽の部屋は和室だ。窓は工事で塞いでしまったため、電気を消すと完全な暗闇となる。
視覚の働かない空間で、他の知覚はより存在感を増す。
耳に届く音は足音だ。アスファルトと擦れ合う音。月生ではない。大家とも住人ともちがう。配達人か。しかし明らかに警戒心をうかがわせる、潜めた音。
それに、匂いは嗅ぎ覚えがあった。あれはつい最近。
そして。
もっとわかりやすい音が続いた。
ガラスが割れる。破片が散らばる。
その音の意味と、その先にある恐怖が太陽を駆り立てる。
「こらっ!」
「ひっ!!!」
玄関から飛び出し回り込み、犯人を怒鳴りつける。
案の定、佑月真昼だった。
おどろいてバランスを崩した彼女を、倒れる前に背後に回って支える。
パーカーと帽子。軍手を履いた手にはハンマーが握られている。
すぐ目の前には、事務所裏口のドア。
キッチンの隅、冷蔵庫の脇に位置するドアだが、その窓の隅が小さく割られている。ここから手を突っ込めばサムターン回しに届く。
ちょうど空き巣が鍵を開ける手口のようだが、それよりはるかに邪悪な行為を太陽は知っている。
「光、入れるつもりだったの?」
「……」
吸血鬼の住まいを特定すると窓や壁を破壊し直射日光を浴びせて殺す、吸血鬼狩りの常套手段だった。穴の空いた自宅を残して行方不明になった者は数え切れない。
腕の中の真昼はしばし呆けたようにこちらを見ていたが。
「……触んないでっ!!!」
甲高い叫びと共に、真昼は太陽の手から逃れて距離を取る。
「ごめん」
「……神野太陽?」
「覚えてくれてるんだ。ありがとう」
今の太陽は宇宙服をスリムにしたような一体型遮光スーツに身を包んでいる。アイカメラ付きの最新型で、買ってくれた月生には頭が上がらない。
窓の割れる音を聞くや否や吸血鬼の運動能力をフルに発揮した早着替えの後、飛び出したのだ。
顔は完全に隠れているのに、敵意むき出しだった彼女が一度名乗ったきりの名前を呼んだのはちょっとおどろきだった。敵意故かもしれないが。
それはそうと……割れた窓に視線を戻す。
「やめてよこういうの。死んでたかも知れないだろ」
「ごめんなさい」
素直に謝る。洒落にならない悪事には、こちらを悪魔扱いするには見合わない殊勝さだった。
「……月生って人が出てくの見て、今日事務所休みってサイトに出てたし、鍵かけてたから、いないのかなって」
「月生、用心深いんだよ。元刑事だから」
口ぶりからすると本気の殺意ではないようだ。考えてみれば、本気なら応接スペースの大きな窓を割った方がいいに決まっている。
イタズラにしてもあまりに悪質だが、それでも敵意に染まりきったハンターよりはまだ救いがある。
「ライラは絶対捕まえるから。他の吸血鬼には手を出さないで」
「……仲間を売ろうっての?」
「ちがうよ。事件を解決するってだけ。探偵だから」
「……は? 依頼やめたじゃん」
「依頼がなくても。探偵だから」
これ以上ない理由だが、どうも真昼には通じていない様子だった。
「探偵って依頼されて浮気調査とか人探しとかする仕事でしょ? 事件解決とかじゃないでしょ。小説じゃないんだから」
月生も、何の接点もない事件を調べるのはもうただの変質者だと言っていた。わかってないと言わざるを得ない。
「探偵は正義の味方だからね。街を荒らしてる奴がいるなら捕まえなきゃ」
「……いい気味って思わないの?」
「何が?」
「殺されてんの、ハンターじゃん。ライラが仇討ってくれてるとかアンタ思わないわけ? 吸血鬼でしょ?」
たしかに、加賀美ライラの犯行を支持する吸血鬼は多いらしい。悪しき権力者ばかりを狙っていたとの過去の逸話も含めて、彼女をダークヒーローと讃える声もあるのは太陽だって知っている。
「殺すのはダメだよ」
「何で?」
「改心、するかもしれない」
「……すると思ってんの?」
白けきっているのが声だけでも伝わる。
「例えば私が、吸血鬼はみんな悪なんて言ってごめんなさいって、手のひら返すと思ってんの?」
「思うよ」
「はあ?」
態度はこんなだが、真昼は本当に殺しかねない行為を躊躇うくらいの、吸血鬼相手でも咎められたら謝ってしまうくらいの普通さを残している。
吸血鬼は遺体が残らず行方不明にしかならないのをいいことに、何人も殺してきたのを開き直る者、真昼のように身内の仇でもなく憂さ晴らしとしか思えない者。ハンターにはそんなのがゴロゴロいる。
そいつらは捕まるべきだ。ハンターからは武器を取り上げて活動を禁止するべきだ。
でも、そいつらを救いようがないなんて断じて、目には目をなんてやり始めたら、自分たちにヘブンを冠する資格はない。
「どんなに最低な奴でも……こんなの死ねばいいって思った奴でも殺すのだけはダメ。ライラがハンターを襲うのも、君がライラを狙うのも」
「ナメてんの?」
刺すような、まるで温度のちがう言葉が返ってくる。
スーツのカメラではぼんやりとした輪郭しか見えないが、自分を射殺さんばかりに睨む彼女がはっきりと目に浮かんだ。
「どんだけお花畑なの?
本気で反省できるような奴は人殺さないんだよ。
怒られたら許してもらうために謝るフリするだけ」
「……わかんないよ」
「わかってないのはお前っ!!」
手にしたハンマーを、まるで鋒のように突きつけてくる。あれが銀でできていたならこちらに振りかぶっていたかもしれない。
「私はぶっ殺す。あんなヤツら、この世界にいちゃいけない」
「じゃあ、先に捕まえる」
大きな舌打ちを最後に、真昼はハンマーをポケットに仕舞い、立ち去ってゆく。
フィルター越しに鼻孔をくすぐる、甘いバニラの匂いが漂う。残り香だけが天国のように優しかった。
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