十一章

 そう言えば、アウラとどこか遠くへ出かけるつもりであった。だから、おれはアウラと旅行に行った。泊りである。

 田舎の古い駅を出ると、目の前に古い商店街が見え、その奥に山々が広がっていた。おれたちは、南北に店が連なる商店街を北上したところにある、小さな旅館を予約していた。

 ここは昔は観光地であったが、観光客らしい人影はあまり見えない。商店街近郊の渓谷の美しさから、バブル期には多くの観光客が来ていた。そこで、渓谷のふもとに大きなホテルが建ち、小さな旅館なども周りにぽつぽつ建てられた。だが、バブルがはじけるとそのホテルは潰れ、廃墟となり、観光客が来なくなった。

 おれたちはあまり人目に付きたくなかった。都会に出てデートする案はボツにした。人目のある所に出れば、アウラと楽しく話しているだけで、ぶつぶつ一人で喋っているやばいやつに見え、周りの人間から変な目で見られる。アウラとの時間が台無しにされるだろう。ならば、なるべくマイナーな場所に行き、ゆっくりと旅行を楽しもうと思った。

 商店街の定食屋で昼食を済ませた後、おれたちは渓谷へ向かった。商店街を抜けた先には橋があり、その下には、上流のごつごつとした黒い岩の間に、清水が水しぶきを上げながら流れている。横でふわふわと浮いていたアウラは「わあ」と嘆息をもらした。

 下の渓谷まで降りられる階段があった。階段を降り、川のすぐ近くまで行った。しぶきの混ざった冷たい空気を吸うと、いい気持ちになった。おれは「綺麗だね」とアウラに言った。

 おれはアウラをここに連れてくることができ、得意な気持ちであった。しかも、渓谷の周りにはおれたちの他に誰もおらず、誰にも気を使う必要がないと思うと、ゆったりとした気持ちになった。完璧な場所である。

「綺麗。しかも、涼しいね」

 アウラも気に入ったようだ。渓谷の流れを背にして、アウラの白い翼がきらりと光っている。アウラの笑顔がいつもより光って見える。このアウラの笑顔をおれの他に見る人がいないと思うと、満足感で心が満たされていく。

 おれは商店街で酎ハイを買い、ビニール袋に入れて手に提げていた。

 おれは、これを川で冷やしてみることにした。ちょうど水が浅くなっている所に缶を浸すと、冷たい水が手に触れた。

「冷たっ」

 思わず声を漏らすと、アウラがふふっと笑った。

 座りやすそうな岩を探して、おれたちは並んで腰かけた。缶チューハイを一口飲む。いい感じの冷たさになっている。

「本当にいい景色だね。やっぱり、こういう景色をたまには見ないと、鬱になっちゃうよ」

「ふふ、そうだね」

 アウラはご機嫌なようだ。

「ねえ、わたしと来れて良かった?」

「もちろんだよ。おれが人と出かける機会なんて、今まで全然無かった。ここに来れたのはアウラのおかげだよ。やっぱり、アウラはおれの天使だよ」

「ほめすぎだよ」

 アウラは照れ笑いを浮かべていた。

 おれは川をじっと眺めた。川の流れを見ると、心が落ち着いていく。おれは、たまに横目でアウラを見て、女の子が隣にいることの幸福を嚙み締めた。

 風で木の葉が揺らめくざわめきや、流水の流れる心地よい音が聞こえる。いつしか、おれたちは静かなムードになっていた。

 ただ黙って座っているだけで、とても気分が良い。ここには、背が低い家が密集した住宅街特有の、嫌な暑さや不快な生活音が無い。おれは今までの不快な出来事を忘れることができた。

「なんか、キャンプみたいだね」

 とアウラが言うと、酎ハイの酔いが回っているおれは、

「そうだね。いつかキャンプも行こうよ、二入で」

 と調子よく言った。

 おれはふと、手元の平たい石を川に投げてみた。石は水面を2回はね、ぽちゃんと落ちた。

「何これ、すごい」

 アウラは驚いていた。石切りを見たことが無いのかな。

 おれは立ち上がり、2、3個形の良い石を拾うと、今度はフォームを整え、投げた。今度は5回もはねた。

「すごい、すごい」

 アウラはきゃっきゃと喜んだ。よし、もう一度。おれは野球のアンダースローのモーションで石を投げた。

 すると、頭上で人の声がした。

 見上げると、橋の上で、ハイキングの格好をしたおばあさんらが、おれを見下ろしていた。

 その目は、おれに「一人で何やってんの?」とでも言いたげな気持ちが表れていた。

 おれは一気に恥ずかしくなった。

(何見てんだよ。さっさと行けよ馬鹿!)

 と恨み言を心の中で吐き出し、一行が過ぎ去るのを待った。一行が遠ざかると、もう渓谷から立ち去りたい気分になった。

 もう旅館に入ろう。

 旅館までの道を歩いていくときも、恥ずかしさは消えなかった。おれは何やってるんだろうという思いがたちまちに頭を占め、人生が上手くいってないとき特有の、心にどろりと残るあの嫌な気持ちを感じていた。

 旅館のチェックインをすまし、さっぱりとした和室の一人部屋に案内された。畳に腰を落とした時、おれは確かに良い気分を感じたのだが、あの一件によって、その幸福感の裏に苦い感情も生じているのだった。

 これはアウラに隠しおこう。せっかくアウラと旅館に泊まるのだから、楽しまねば。

 大浴場のお湯に入り、久しぶりに着る浴衣に袖を通した。部屋に戻り、窓の景色とアウラと楽しむ。3階のこの部屋は、窓から渓谷と山の景色が見える。

 渓谷の景色を眺めていると、川にいたときの穏やかな気持ちが戻ってきた。あの一件での嫌な気持ちも忘れられるだろう。

 窓の外の夕日が沈み、女将さんが料理を運んできてくれた。鍋物に、様々な小物。普段の食事には無い品ぞろえの豊かさである。そして、瓶ビール。

 おいしい料理に舌鼓を打っていると、ぼおっとした温かい幸福感が体を包んでいった。ビールを飲みながらアウラとたわいない会話をすると、たまらなく幸せな気持ちになった。

 酔いが体に回るのと同時に、時間はたちまちに過ぎていく。いつしか飯は片付き、鍋の汁は冷えきっていた。

「おいしかった?」とアウラが聞いてきた。

 おいしかった。風呂も入ったし、うまい飯も食ったし、幸せだなあ。もうやることは全部やってしまった。

 そう思うと、おれはこの旅行が終わっていくのを感じた。

 すると、体に廻った酔いのせいか、どうしようもなく寂しい気持ちがわいてきて、止まらなかった。

 また、川で、ばあさんらに変な目で見られたことを思い出してしまった。そして、それをきっかけに、過去の様々な嫌な出来事がずるずると意識の上に引っ張られてくる。

 そうだ。おれはまた、人がうじゃうじゃいる街に戻り、肩を狭めながら、つまらない生活を送る日常に帰らなければいけないのだ。

 おれの幸せな時間が終わってしまう。

 その時、おれは自然と声が出ていた。

「アウラ、おれはいつまで、こんなことをしてるんだろう」

「え、どうしたの?」

 アウラの眼に不安の色が灯る。

(ああ、もう嘘はつけねえや。自分にも、アウラにも)

 おれはそう思った。すると、言葉が勝手に口からぼたぼたとこぼれていく。

「大学3年にもなって単位が全然取れてない。就活もやってない。本当は旅行に行ってる暇なんてない。おれはただ、現実逃避してるだけだ」

「……」

「結局、この夏休みは、おれは現実逃避して、何もしてこなかった。今までの人生と同じだ」

「そんなことないよ。私といろいろしたじゃん」

 か細い声でアウラは言う。

「世間では、それを何かしてるとは言わないよ。それに、おれが家に引きこもっているからアウラと一緒にいれたんだよ。外の人間は、タルパと喋っているおれなんて異常者扱いしてくるんだ。そんな人間がうようよいる所でこれからも生きていかなきゃいけないんだ。おれは他の人間が大っ嫌いだ。なのに、おれは他の人間が嫌いなくせして、やつらより秀でたところはどこも無いんだ。おれは何もできないんだ!」

 おれは一気に吐き出した。

 ぜえぜえと呼吸が乱れた。

 アウラの事を見れなくなった。おれはうつむいて、耳を塞ぐように頭を抱えた。そしておれは黙ってしまった。

 しばらく沈黙の時間が流れた。それを、アウラの一言が破った。

「できるよ」

 うつむいて、テーブルを見下ろしているおれの頭上で、アウラが包み込むように言った。

「何もできないのはわたしの方だよ。わたしには何の実体も無いんだから。今日、この旅に出たのも、きみだよ。きみが実際に行動をしているんだよ。それと同じだよ。やろうと思えば、何かはできるよ。きみ次第で」

 おれはいつの間にか涙が出ていた。アウラは両手でおれを抱え込んでじっとしている。おれを抱いているんだ。

 おれは子どものようにアウラに泣きすがった。

 そんなアウラの輪郭がぼやけて、あいまいになっていく。

 温かい感覚が、確かにあった。

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