十章
午後6時半。9月にもなれば、だんだんと暑さが和らいできて、外に出ていても辛いと思わなくなってきた。
川野との待ち合わせ場所を大学の前にしたせいで、夏休みなのに大学まで行く羽目になった。集合時刻は今だが、川野は遅れていて、平謝りのチャットが届いていた。アウラは部屋で留守番してもらっていた。おれは久しぶりに一人の暇な時間を過ごした。ぼんやりとアウラの事を考えていた。
そうしているうちに、川野が来た。おれが知っている川野は、太い黒ぶち眼鏡をかけた、野暮ったい見た目の男であった。しかし今日は、ぼさぼさに長かった髪がさっぱりと切られており、真面目そうな好青年に見える、いい感じの雰囲気になっていた。それに対し、おれは学校に行っていない間に、ぼさぼさの髪を伸びっぱなしにしていた。
「ごめんね。待たせちゃって」
「全然いいよいいよ、じゃあ行こうか」
いちおう友達と言えるものの、相手を「お前」と呼んだり、冗談の範囲で相手を責めたりできない関係特有の、妙に気遣いのある話し方である。
大学の前の道を下ると、大きな交差点に出て、道路に面して飲食店や居酒屋が並んでいる通りが見える。飲み放題の居酒屋は、ここの学生が良く利用しているのだった。おれたちは予約してあった安居酒屋に入り、隣のテーブルで大学生らしき男女の集団が騒いでいる、小さなテーブル席に座った。
最初の一杯に、おれはビール、川野はレモンサワーを頼み、適当に焼き鳥などの料理を注文した。酒が来て乾杯をするまで、お互いに何を喋ろうか考えている雰囲気だった。
「就活とか、どう?ぼちぼち?」
川野が最初に提示した話題がこれであった。おれは就活について何も言えなかった。
何もしていなかったからである。
「―いや、まったく」
苦笑いでそう返すと、川野もエヘエヘと笑った。
「おれも就活とかよくわかんなくてさ。インターンとか、SPIとか、今まで二年と半年、全く教えられていないことを、いきなりできるわけないよ。だから、おれは2社くらい適当にノリでインターン受けてさ、就活とかちょっとやってますよ、という感じを出してるだけ」
川野は一気にこう言った。
「えらいじゃん」
川野はしっかり授業に出ている。口では弱気なことを言っても、何とか上手くやるだろうと思った。
「おれは就活の事なんて、何にも考えてないよ」
おれは率直にそう言った。
「そう、まあまだ時間あるからね。おれは就活ってどういうもんだろうって思ってたんだ。周りの人らはどうしてるんだろうって」
「おれを参考にしないほうがいいね」
おれはぐんぐん飲んでいた。最初のビールをもう開けてしまい、レモン酎ハイを頼んだ。川野は、から揚げやサラダなどをバランスよく注文した。
「お酒好きなの?」
川野はレモンサワーを一口ずつ飲んでいた。
「好きだよ。お酒を飲めば絶対に楽しくなるから。映画を見たりするよりも確実だ」
おれがこう言うと、川野はレモンサワーの残りをぐっと飲み干し、
「そうだな。やっぱり、アルコールってのは確実だよなあ」
とつぶやいた。
そこで会話が切れ、また、沈黙。
そして、川野は小さなため息をついて言った。
「バイト先でさ、好きな女の子がいてさ。あんまり喋ったことなかったけど、絶対に人の悪口とか言わなくて、ずっとニコニコしてて、見てるだけで癒されたんだよね。それで、おれ、いつ告白しようかなって考えたんだけど。この前、その子辞めちゃったんだ」
川野がなんか急に語り出した。
「どうせもう会えないならさ、最後に告白すれば良かったのに。それか、頼んで連絡先もらったりすれば良かったのに。おれはこうやって、人生のチャンスを蹴っていくんだ」
大事なところで行動を起こせないところは、おれも同じだ。
「わかるよ。おれも、肝心な所で行動をおこせないんだよな」
「そうだよなあ」
川野は、よく言ってくれたという感じでおれを見た。
「でも、そういう女の子は、もう彼氏がいるもんだよ」
おれがそう言うと、川野は「やっぱそうゆうもんだよ」と言い、自分を納得させようとしているようだった。
川野は追加でハイボールを頼み、「ちょっとトイレ」と席を立った。おれはレモン酎ハイを飲み、3杯目もこれを頼もうと思った。
川野は、失恋を暴露したことが恥ずかしくなったのか、ペース速めで酒を飲むようになった。おれもアルコールを調子よく胃に流した。おれたちは頻繁に尿意をもよおし、トイレに行くことになった。
「なあ、彼女いる?」
酔いが回った川野にそう聞かれて、おれはアウラのことを言おうか迷った。だが、さすがに言えないだろうと思い、「いない」と真面目な顔で言った。
想像の女の子と同棲しているといえるわけがないだろう。おれはおかしいやつと思われるに違いない。
そう思ったとき、ふと、人にどう思われるのかは関係なく、おれはただ、おかしいのではないか、という疑問が頭に浮かんだ。
おれは、ちょっと病気なのかもしれない。
「じゃあ、したことある?」
川野は下品な笑みを浮かべて言った。おれも笑った。
「ないよ。あるわけないだろ」
おれたちはお互いに未経験であった。
そんなことを喋っているうちに、飲み食べ放題の時間制限が来ていた。
会計を済ませ、店を出ると、外は暗くなっており、涼しかった。
「なあ、きみ時間大丈夫?」
川野が遠慮がちに言ってきた。
「全然大丈夫。おれ、明日何もないから」
「そう。おれも」
まだ一緒にいる流れだ。おれたちは、遊びなれていない足取りで、街をぶらつき、近くのカラオケ屋に入った。頭ははっきりしていないが、何となく幸せな気分だ。おれ達は部屋に入ると、ゆっくりジュースを飲んで酔いを冷ました。
「持ち曲、無いよ」とお互いに言い、適当に曲を検索していると、おれが中学の頃合唱コンクールで歌った曲があり、歌ってみた。おれは歌う機会が無さ過ぎて、とんでもなく音痴だった。
2時間たってカラオケ屋を出ると、おれはなんとなく、帰るのが惜しくなっていた。
駅の前で、「おれはちょっと酔いを冷ましてから帰るよ。酔ってると、けっこう家まで歩くのがしんどいんだ」とおれは言った。
すると、川野も、「おれもついて行っていい?おれもまだ酔ってるんだ」と言う。
おれたちは駅前のコンビニで水分とアイスを買うと、近くのコンビニのベンチに座った。芝生の青臭さが、むっと鼻についた。
もう11時になっていた。
「終電逃したらどうする?」
「朝までここにいることになるね」
おれは親に連絡を入れた。
そして結局、おれたちは終電を逃した。おれたちは気分がふわふわしていて、酔ったとき特有の、「何でも来い」というおおらかな気持ちになっていた。
おれたちは夜を通して、中学、高校の時の話をした。おれたちの人生には何も劇的なことは起こらなかった。だが、時間だけは平等に経ち、何もないまま大学生になった。
よく話が続いた。
やがて、ビルの隙間から太陽の光が差し、車の排気音がぶんぶん鳴り始めた。もう酔いはすっかりさめていた。
「こんなに人と喋ったことないよ」と川野が笑った。
改札の前で、おれたちは、今日はありがとう、ありがとうと繰り返し言って別れた。
おれはスーツを正しく着たサラリーマンと電車に乗り、おれの住んでいる町まで流れる景色を見た。朝の人波に乗って最寄り駅の改札を出ると、すれ違い、追い抜いていく車を眺めながら、家までゆっくり歩いて行った。
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