九章
8月30日、最後のバイトに行った。特別なことは何もなく、おれは普通に仕事をし、「おつかれさまです」と言って帰った。何の感慨もない。
帰りの道で、バイトの時間中に川野からチャットが来ていたのに気づいた。一週間後あたり、飲みに行かないかという誘いであった。一週間後といったら、もう9月になっている。断る理由もないので、「いいよ。何日が空いてる?」と打って返した。
寝る前、明かりを消してから、いつものようにタブレットを立てて映画を見た。つまらなそうな学園恋愛映画である。
「バイト、おつかれさま」
アウラは空中で体操座りの格好をし、膝を抱えて組んだ腕に顎を乗っけて、おれの方を見ていた。
「あ、ありがとう」
おれは筋肉に付いた重たい疲れを感じつつ、バイトが終わって清々した気分であった。それと同時に、虚脱感があった。
「バイト辞めて、もう何もすることが無くなっちゃったなあ」
「じゃあ、どっか行く?」
おれはアウラをちらっと見た。アウラは画面をじっと見ており、瞳に画面の光が四角く反射していた。その瞬間、映画のヒロインがキャーッと悲鳴を上げ、おれは画面の方に目を移すと、ドタバタギャグシーンが始まったようであった。イケメン役が学校内を駆け回り、プールに飛び込むと、「怒られないの?これ」とアウラが言った。そして、アウラはおれの方に顔を傾けて、意味ありげにおれの顔を覗き込んだ。
「どっか、遠いところに行かない?」
さらにアウラは言葉を次ぐ。
「きみがわたしを見えるようになってから、色んな映画見たり、たくさんの話したり、すごく楽しくて、わたしの世界が広がっていった。でも、わたしたち、あんまり部屋の外に出てないよね。外に出たら、もっといろんなものが見えると思う」
「バイトで外出てたじゃない」
「そんな近所じゃなくて、もっと外」
いつになくアウラの声が明るかった。
確かに、アウラとどこかに出かけたら楽しいだろうな。それが恋人らしい。
だが、おれは思春期から非モテの精神を煮詰めており、巷のカップル的なセンスを全く持っていなかった。だから、アウラをどこに連れて行けばいいのかわからない。
また、アウラの「外の世界を見る」という言葉に引っかかった。おれは長らく、ネットの世界や学校生活の場面において、傍観者でいたため、何も成せなかったからだ。旅行に行って景色を見たりしても、どうしようもないのではないか。
何をするかが大切なのだ。
では、おれは何をしたらいいのだろうか。
いや、それこそアウラのために、アウラのやりたいことをすべきだろう。それが遠くに行くことならば、それでいいじゃないか。おれはアウラの彼氏なのだから。
「そうだね、夏休みの間で、どこか行こうか」
デートっぽいところだと、大学のある都会の方までいけば、何かあるだろう。
そう考えつつも、実のところ、アウラの口から、おれがアウラの彼氏だという確証が、まだアウラの口から得られていなかった。おれとアウラの恋人関係は、おれの設定の中にあるにすぎない。
おれはアウラの言質を取りたいと思ったが、何を口に出したらいいのかわからず、黙って映画を見ていた。映画のヒロインの恋は順調に進んでいく。だんだんとお互いが両思いであることがヒロインにも察せられ、恋の駆け引きのスリルが弱まっていく。
最後のシーンでは、桜道を、ヒロインと主演男優が手をつないで、画面の奥へ胡麻粒になるまで歩いていった。そこで、音楽が流れ、スタッフロールが割り込んできた。
おれは横のアウラを見、少し乾いていた唇をなめて濡らし、言葉を発す準備をした。
「アウラは、おれのこと好き?」
おれの声はしりすぼみに小さくなっていた。
アウラは、おれの手の甲の上に、そっと白い掌を重ねた。温かみのようなものは感じたものの、手の重さと、皮膚が実際に触れている感覚が感じられなかったのが、もどかしかった。
その時、おれの喉の奥から言葉が勝手にはい出てきた。
「夢の中できみと会いたい。夢の中では、きみにちゃんと触れるから」
変なテンションで言った、謎の発言である。
アウラは何か言いたそうな顔をして、眼に光の粒が浮かんでいた。
「そうだね。会えるといいね」
エンドロールが終わった。おれは、どこか寂しい気持ちになった。
「ほんとに、おれは、これから何をしたらいいんだろう」
夏休みの間だけでない。夏休みが終わった後も、おれの将来のために、おれは何をするべきなのだろうか。心の底の本当の悩みをこめてつぶやいた。
して、しばらくの沈黙があった。
「ごめんね。わからない」
「わたし、本物の天使じゃないみたい」
アウラは困ったように笑った。
アウラは本物の天使になりたいのだろうか。本物の天使のように、おれを導きたいのだろうか。おれを天界まで、夢の世界まで導いていき、おれの現実界の悩みを無くしてしまいたいのだろうか。おれの頭の中に、そんな推理が浮かんだ。
それは無理だろうな。アウラは天使だけど、ただの女の子だ。おれの人生を救うのは無理だろう。人生に救いは無いのだ。だが、変化はある。おれはアウラが一緒にいてくれるおかげで、寂しくなくなったのだ。
アウラはとてもかわいい。ありがとう。一緒にいてくれて。
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