七章

「もう朝だよ、起きてー」

 氷砂糖のように甘い声が耳を撫でた。アウラはおれの顔を覗き込んでいた。アウラはふっと笑顔を作り、寝ている俺の上にごろんと寝転がった。

「おはよう」

 おれはまだちょっと呆けていた。

「朝ごはん食べてよ。残念ながら、私は作ってあげられないけど。きみ、最近朝ごはん抜きがちじゃない?ちゃんと食べなきゃだめだよ」

「えー。そんなお腹すいてないけど」

「だめだよ。軽くでいいから、なんかお腹にいれないと、力出ないよ。」

「まあ、アウラが言うなら、なんか作ろうかな」

「えらいっ」

 アウラがにっと笑った。

 アウラと一緒にリビングに降りた。親はもう仕事に行っている。歯を磨き、トースターにパンを入れ、アイスコーヒーを入れた。

 時計を見ると、朝8時だった。最近ずっと昼過ぎに起きていたので、新鮮な気持ちになった。久しぶりの朝食を食った。

 朝の時間をごろごろし、昼飯を食うと、おれは何をしようか、とぼんやり思った。

 するとアウラがこう言ってきた。

「ちょっとこの部屋、掃除しない?」

 確かに、おれの部屋は汚かった。無数の缶やペットボトルが床に散らばり、机の上には本や漫画があふれ、机が使い物にならない。いつからあるか分からないゴミ袋が部屋に放置されている。様々な紙屑やごみ、衣類が床に投げ出されており、床が七割くらい見えなくなっている。

 おれはこのありさまを気にしてなかった。これだけ散らかってても部屋を片付けようと思わなかった。部屋を片付けて何のメリットがあるのか。部屋は勝手に散らかっていく。

 だが、アウラがいる今、片付けねばなるまいと思った。

「片付ける?」

 おれはそう言うと,

「わたし、応援してるから」

とアウラが言った。

 おれはビニール袋を台所から持ってきて、腰をかがめ、床に落ちているペットボトルや缶を入れ始めた。床が小さな塵でざらざらしている。

「もう何カ月も掃除していないんだなあ」

 とおれはつぶやいた。アウラは床を眺めているおれの顔を覗き込むようにして言う。

「この際、すっきりさせちゃおうよ」

 ペットボトルのビニールとキャップを外し、袋に入れる。缶はつぶして袋に入れる。この繰り返し。だんだんと無心になってきた。部屋中のボトルと缶を入れ終わると、床が結構見えるようになった。

 次に、散らばった紙屑を片付けようとした。机の下を紙が束になって埋め尽くしているので、おれはしゃがんで、机の下にそろそろと入った。ほこりを被り、椅子に踏まれた後がついている紙の中に、活字の英文が並び、汚い字で日本語のメモが書かれたプリントがあった。それらは何枚も重ねられていた。

 おれはそれを拾い上げると、机の下から出て、「これは」と小さな声を漏らした。アウラもプリントも興味ありげにプリントを見た。

「何?」

「おれがとれなかった授業のプリントだ」

「とれなかった?」

「単位を」

 沈没船が水面に吊り上げられるように、おれの記憶の底から、あの時の記憶が重い砂を巻き上げ、浮かび上がってきた。

「一年の時の授業だった。必修だから、最初は真面目に行ってた。全部で20人くらいの少人数の授業で、ペアでずっと英語をしゃべった。教員が典型的な留学帰りで、とにかく喋れって感じだったなあ。でも、おれは喋れなかった」

「喋れなかったの?」

「何で喋れなかったのかなあ」

 一年後期必修の英語だった。たしか、簡単な方の英語の授業は抽選で落ち、ちょっと難しい方の授業をとることになった。明るい女子が多い教室だった。始めの数回で、おれは完全にこの授業に苦手意識を持った。おれは英語を喋るのが苦手だった。

 ある日、金髪の、マニキュアの爪が長い女子とペアになった時、おれは全然英語の文法になっていない、全然聞き取れない英語もどきを喋り、対面のその女子を困らせ、会話を詰まらせてしまった。どうにか無言の間を避けようと口を開くのだが、声が出てこない。

「声が出てこなかった」

 声を出せなかったおれは、頭が真っ白になった。おれはその次の授業に出なかった。その次は出たが、それを最後に、おれは二度とその授業に出ることは無かった。

「サボるようになってから、なんか変な気持ちになったなあ」

 アウラはきょとんとしていた。変な気持ちってなんだよ、とおれは照れ笑いが出た。

 授業に出なくなり、憂鬱や焦りに包まれていた授業の時間が、何もない、ただの空白の時間になった。何か言われることも無かった。あっけないというか、手ごたえの無い感じがした。中学、高校の授業とは違うのである。

「他の飛んだ授業とか、投げ出した単位もそうだった。なんか難しい、色んなことがあって、いろいろ悩む。だけど、ある時ターニングポイントが来て、何も感じられなくなるんだ。すすと、おれは悩みの種をごみ箱にうっちゃっているんだ」

 そんなことを話しているうちに、おれは掃除の手を止めていたことに気づいた。おれは授業のプリントをまとめて、ばさっと袋に入れた。

 おれは何でも、一人でやるしかなかった。一年生のときは、卒業単位を一、二年でほとんど取っちまおうと思っていたが、ぼっちには情報が回って来ず、課題を一緒にやる友達もいなかった。何をやっても誰にも褒められなかった。

 おれは大学生活における問題を解決するために、悩み、病んだ。

 一年の前期から、課題を出しそびれたり、遅刻した授業に結局出なかったりしたことを、何度か積み重ねた。英語の授業を成績が不可になるまで欠席したことが、怠惰の航路へのターニングポイントになった。おれは悩み苦しんで解決しようとしていた問題を捨て置くようになった。解決のための努力を諦めたのである。

 その後に待っていたのは、ただの空白、虚無であった。おれは何もできなくなり、しようともしなくなった。

 今のおれの目の前には、おびただしい量の缶で膨らんだ袋があり、秋物の服が、床に放置されている。時間が停滞したような部屋だ。この部屋の外には、都市郊外の住宅街が広がり、その外には、おれの大学がある都市があり、さらに外には全世界がある。世界はおれが何もしなくても勝手に進むだろう。

 おれはたっぷりの時間を使って、全てのごみを袋の中に詰め、机の上を整理し、床に掃除機をかけた。床はつるつると光り、部屋はいつもより広くなった。

 もう夕方になっているのを、壁に四角く切り取られた橙色の光が見えたことで気付いた。

「おつかれさまー。広くなったねえ」

 アウラは、閉じ気味だった翼を大きく広げ、横向きに体をねじって一回転し、ふわふわと舞った。アウラは子どものように笑った。やっぱり、アウラがいる部屋は、綺麗でなくちゃいけないと思った。

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