エピローグ
夏の終わりを告げる風が、窓の外を抜けていく。
蝉の声は遠ざかり、代わりに秋の虫の合唱が夜を埋めていた。
机の上には、分厚いスケジュール帳。
そこにびっしりと書き込まれた文字を見ながら、俺はペンを走らせていた。
次の会場、交通手段、リハーサルの割り振り。
数週間前までは想像もしなかった作業が、今や俺の日常の一部になっている。
「颯、そこは私のスケジュールと被ってない?」
声をかけてきたのは結だ。
部屋の隅でストレッチをしながら、こちらをちらりと見る。
センターを任される彼女の予定は、常に最優先で組み込む必要があった。
「大丈夫だ。ライブの前日はオフにしてある。集中したいんだろ?」
「……さすがですね。もう“マネージャー”らしいです」
穏やかに微笑むその姿は、以前よりずっと柔らかい。
けれど、その瞳には確かな強さが宿っていた。
小紅――いや、結城小紅としての素顔を知った今、俺には彼女の揺るぎない芯がはっきりと見えていた。
⸻
休憩スペースでは、芽亜がソファに寝転びながらスマホをいじっていた。
「ねえ颯、次のサムネイル、私も意見言っていい? どうせなら“笑顔多め”で行きたいんだよね」
「了解。瑞稀さんにも確認しておく」
「やった。……あ、あとゲーム枠、私また練習したいんだけど」
「バニラに負けて悔しいのか?」
「ち、違うし! でも……颯と一緒なら、楽しそうだから」
小さく呟いた声は、相変わらず不器用な優しさに満ちていた。
彼女が笑うと、どんな緊張も少しだけ和らぐ。
その力が、Open Haloには確かに必要だった。
⸻
窓際のテーブルでは、優子がノートを広げていた。
「ここ、コメント拾いのタイミング、もうちょっと工夫した方がいいんじゃないかな。颯、見てくれる?」
「お、さすが分析班。いいぞ、見せてみろ」
「えへへ。でしょ? 私、こういうの得意なんだよ」
ページにはびっしりと配信のメモ。
再生数の推移、コメントの傾向、人気タグの研究。
彼女の努力は、ふざけたように見えて誰よりも緻密だった。
俺はその細やかさに助けられることが、すでに何度もあった。
⸻
そして、隅のソファでは恋が膝を抱えていた。
「颯、ちょっと来て」
「どうした」
「これ、歌詞のニュアンス……やっぱり違うかな」
彼女が差し出した譜面には、小さな書き込みがいくつも並んでいた。
その文字は、涙を乗り越えた人だけが持つ温かさを帯びている。
「大丈夫。恋の声なら伝わるよ」
「……うん。颯にそう言われると、不思議と安心する」
かすかな笑顔。
病室で見た涙は、もうそこにはなかった。
⸻
気づけば、部屋にはそれぞれの声が混じり合っていた。
笑い声、相談の声、時折の小さな口論。
その全部が音楽のように響き合い、一つの輪を描いている。
俺は手元のスケジュール帳を閉じ、深く息をついた。
ここまで来るのに、何度も迷い、立ち止まりかけた。
解散の危機、彼女たちの素顔、そして自分自身の進路。
けれど――。
そのすべてを越えて、今、俺はここに立っている。
「颯さん」
小紅が呼ぶ。
その声に顔を上げると、四人全員がこちらを見ていた。
「次のステージ、きっと大きな壁になります。でも、私たちには颯さんがいます」
「そうだよ。だから、どんと任せるね」芽亜が笑い、
「頼れるマネージャーだもんね」優子が肩を叩き、
「……ずっと一緒にいてください」恋が小さく告げる。
胸が熱くなった。
言葉にならない思いを押し込めながら、俺は頷く。
「もちろんだ。俺は――Open Haloのマネージャーだから」
その瞬間、拍手が湧いた。
小さな部屋の中に、未来へ続く音が響いた。
⸻
夜。
事務所を出ると、澄んだ風が頬を撫でた。
街灯の下で見上げた空には、輪のように雲が広がっていた。
Open Halo。
光の輪は、もう壊れない。
これからどんな困難があっても、俺たちは共に進んでいける。
歩き出す足取りは、不思議と軽かった。
未来はまだ見えない。けれど、確かに――ここから始まっていく。
俺と、彼女たちと、Open Haloの物語が。
推しのメンタルが俺の単位を溶かす 菊成朔 @efkiku429
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