第38章 告げられる役割
光輪の夜が終わり、翌日のスタジオにはまだ熱が残っていた。
ライブの余韻はメンバーそれぞれの胸を温めていたはずなのに、その空気には妙なざわつきが混ざっていた。机の端に残された一枚の紙――俺の大学の届け出用紙。それを小紅が見つけてしまったのだ。
いつものリハーサル準備が始まるはずの時間、だが今日は誰もマイクを握らない。
結が椅子の背にもたれ、じっと俺を見ている。
芽亜はペットボトルの水を何度も口に運び、落ち着かない仕草を繰り返す。
優子はゲームコントローラを手にしては置き、置いては手に取るを繰り返している。
恋だけが空気を和らげようと笑みを浮かべたが、その目には隠しきれない緊張があった。
「……颯さん」
最初に声を出したのは小紅だった。
昨日の夜に紙を拾った彼女。その瞳は、ステージの光を受けたときのものよりも、ずっと真剣で鋭い。
「これ、どういうことですか?」
視線が一点に集まる。
俺は返事をしようと喉を開いたが、言葉にならなかった。あの瞬間からずっと考えていた。だが、どう答えても中途半端になる。
机の上で拳を握りしめると、背後から声がした。
「それについては、私から説明する」
社長だった。
ドアを開けて入ってきたその姿は、いつもよりも背筋が伸び、余計な笑みもない。隣には瑞稀も立ち、タブレットを小脇に抱えている。
全員の視線が一斉に社長へと移る。
「昨日の成功をもって、“Open Halo”は正式に次のステージへ進む。パラダイスオーシャンのライブで解散を阻止できた。証明は済んだ。これからは活動を増やし、もっと広い場所へと出ていく」
声は低いが、確信がこもっていた。
メンバーは息を飲み、俺も胸の鼓動が強まる。だが社長の次の言葉は、俺の予想を超えていた。
「――そのために、正式に“マネージャー”を雇うことにした」
社長の声は低く抑えられていた。けれど、その一言は雷鳴のように場を震わせる。
空気が一瞬にして凍りつき、誰もが次の言葉を待った。
「これまで現場の細かいことを手伝ってもらっていたが……」
間を挟み、重く落ちてくる。
「……それは今日までだ」
――静寂。
蛍光灯の低い唸りが、異様なほど大きく響いた。
息を呑む音すら、誰一人として出せない。
最初に眉を寄せたのは芽亜だった。
落ち着きなく視線を揺らし、「……どういう意味ですか?」と呟く。
優子は目を丸くし、背もたれに押しつけられるように座り込む。
「え……ちょ、待って。今日までって、そんな急に言われても……!」
声が裏返り、場の緊張をかえって煽る。
恋は小首をかしげ、長い睫毛の影に戸惑いを隠せずにいた。
「……えっと、それって……誰が……?」
か細い声が途切れ、視線が社長と俺の間を行き来する。
小紅は唇を結んだまま。
けれど、その手が膝の上で小さく握りしめられていた。
沈黙が、彼女の胸の奥に張りつめた緊張を物語っている。
社長は、そこでわざと時間を置いた。
全員の視線が自分に集中したと分かるまで、沈黙を崩さなかった。
そして、ゆっくりと歩を進め、俺の正面へ。
床板がわずかに鳴る。
その音すら、刃のように空気を裂いた。
視線が、容赦なく俺を射抜く。
逃げ場のない、強い光。
「颯」
その一声で心臓が跳ねた。
「君がその役を担ってほしい。――Open Haloの、正式なマネージャーとして」
全員の息が一斉に吸い込まれた。
芽亜の目が見開かれる。
「……颯が……マネージャー?」
優子は椅子から身を乗り出し、思わず声を荒げる。
「ちょっと! 本気で言ってるんですか社長!?」
恋の肩が小さく震える。
「……颯さんが……? でも、それって……」
結はただ俺を見ていた。
沈黙の奥に、強い光と、揺らぎを帯びた色を同時に宿して。
張りつめた空気が、重く、痛いほどに胸を圧迫する。
言葉が落ちた瞬間、空気が震えた。
誰かが息を呑む音。
鼓動が速くなる。
メンバー全員の視線が、一斉に俺へと突き刺さる。驚き。戸惑い。否定しきれない期待。
逃げ場は、なかった。
頭の奥で走馬灯のように、これまでの場面が駆け巡る。
芽亜の弱さを知った夜――声を押し殺しながらも、必死に強がろうとしていた姿。
優子が無邪気に笑い、全力でぶつかってきた瞬間。
恋が病室で涙を流し、俺の手を強く握ったあの時。
そして小紅。名前を呼んでしまった、あの一瞬。彼女の瞳に確かに灯った光。
それらすべてが、いまここに集約されている。
俺の中で答えを求める声が渦を巻いた。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
最初に叫んだのは優子だった。
椅子を鳴らして立ち上がり、早口でまくしたてる。
「颯がマネージャー? それってつまり……大学はどうなるんですか!? 昨日の紙、あれって……!」
その言葉に芽亜がすぐさま被せるように続いた。
「そうだよね……だって、学校だって大事なんじゃないの? それを捨ててまで――そんなの、本当にいいの?」
小紅の声が、低く、けれど真剣に割り込む。
「……“捨てる”じゃないと思う。でも……決断を迫られてるのは、確か」
恋は視線を落とし、拳を膝の上で握りしめていた。
唇がかすかに震え、消え入りそうな声がこぼれる。
「……颯がいなくなるのは……嫌だな」
声が重なる。
部屋の熱が、一気に上がった。
誰もが、俺の答えを待っている。だが喉は張りつき、言葉は砂のように崩れ落ちていく。
息が詰まり、心臓の音ばかりが耳の奥で鳴り響いた。
そのとき、社長が手を挙げた。
その仕草ひとつで、ざわめきは収束する。
重苦しい沈黙。
その中で社長の声だけが響いた。
「彼が選ぶべき道は、彼自身が決めることだ」
一言ごとに、鋼のような強さが宿る。
「だが――私はマネージャーとしての適性を彼に見た。昨日のライブも、彼の采配がなければ成立していなかったはずだ。……君たちも、それをわかっているだろう?」
誰も、否定できなかった。
芽亜の肩が小さく震え、優子は唇を噛みしめる。恋は目を閉じ、小紅はじっと俺を見つめる。
確かに、あの一瞬――俺が叫ばなければ、結は立ち止まっていた。
その事実が、全員の沈黙を支配していた。
瑞稀が静かに口を開く。
タブレットを胸に抱えたまま、落ち着いた声音で。
「数字も結果も、現場の安定も、昨日が証明している。必要なのは、この先も共に走れる人。――彼だよ」
心臓が大きく跳ねる。
熱と冷気が同時に全身を駆け抜ける。
俺は、深呼吸を一度。肺に流れ込む空気は重く、苦い。
けれど、その奥にあるのは恐怖ではなく、覚悟を求める最後の確認だった。
社長は腕を組んだまま、俺の思いを察したのか短く頷く。
「できる。だから任せたいと言っている。だが、この先を歩くのはお前自身だ。どちらにせよ――中途半端は許されない」
その言葉に、胸の奥が強く打たれる。
視線を巡らせると、四人の顔が浮かび上がる。
小紅はじっと揺れない瞳で俺を見つめ、芽亜は拳を膝に置いたまま息を詰め、優子は不安げに唇を噛み、恋は涙をこらえながら祈るように両手を握っていた。
俺は、ゆっくりと息を吸い込み、一歩前に出る。
「……俺は、決めました」
張り詰めた空気が一瞬で固まる。
「学校は辞めます。その上で――“Open Halo”のマネージャーとして全力を尽くします」
言い切った瞬間、息を呑む音が重なった。
「ちょ、ちょっと待ってよ!」優子が椅子から身を乗り出す。「本気で言ってるの? 学校まで捨てて……」
「そうだよ……」芽亜も不安そうに眉を寄せる。「将来のこと、ちゃんと考えて……」
小紅がゆっくりと口を開いた。
「……それでいいの? 本当に」
恋は、泣きそうな声でぽつりと落とす。
「颯がいなくなるのは嫌。でも……全部を投げ出すなんて……」
四人の声が重なり、胸の奥が熱くなる。
けれど俺は、迷わずに言葉を返した。
俺は一歩踏み出し、声を震わせずに言った。
「…彼女たちを支える立場になるのに、中途半端にはできない。俺は、彼女たちと共に走りたい。マネージャーとして全てを懸けたいんです」
その空気を切ったのは、社長の低い声だった。
「先走るな、馬鹿やろう」
雷のように響いたその一言に、全員が息を呑む。
「そんな無鉄砲な挑戦があるか。お前の思いは十分伝わった」
厳しさの奥に、確かな熱が宿っていた。
「……だが、学校のことも完全に切り捨てろとは言わない。お前がやる気なら、並走する仕組みは私たちで考える。そうする方が、彼女たちも安心して活動できるだろう」
頑なに突き進もうとした胸を、その言葉が静かに受け止めていく。
俺は唇を噛んで、それでも前を向いた。
「……ありがとうございます。でも、俺の覚悟は揺るぎません。Open Haloのために生きます」
社長はわずかに目を細め、そして短く頷いた。
沈黙が落ちる。
その中で、小紅がゆっくりと頷いた。
「……ありがとう。なら、止めない。私たちだって、颯に救われてきたから」
芽亜が小さく「バカだな……でも、ありがと」と呟き、優子は大きくため息をつきながらも「……そこまで言うなら信じるしかないじゃん」と肩を落とす。
恋は涙を拭いながら「……なら、絶対に後悔させないからね」と笑った。
社長が一歩前に出て、低く、しかし確かに響く声で告げる。
「……これで決まった」
重い宣言が場を貫いた。
「颯。君は今日から正式に――Open Haloのマネージャーだ」
その瞬間、四人の視線が俺に集まる。
驚きと不安、そして確かな信頼。
俺は拳を握り、胸を張った。
「――後悔はしません。これが、俺の選んだ道です」
言い切った瞬間、空気が震えた。
しばしの沈黙。その沈黙を、四人の言葉が順に満たしていく。
芽亜が最初に口を開いた。
「……ほんと、無茶苦茶。でもね、颯がそう決めたなら、私は信じる。だって、あの夜、私を助けてくれたのは颯だから」
言葉の最後に、小さく拳を握りしめる。
優子が続いた。
「私は……最初、信じられなかった。生活の基盤ってすごく大事だと思うし。けど、今の颯を見てると……なんか、安心しちゃうんだよね。やっぱり本気なんだって。だから、もう文句言わない。代わりに頼りにするから」
茶化すように笑うけれど、その目は真剣だった。
恋は視線を落としたまま、そっと言う。
「颯がいなくなるのは嫌。だから、ここにいてくれるって決めてくれたの、すごく嬉しい……。泣き虫な私でも、これなら頑張れる気がする。信じていいんだよね?」
顔を上げたその瞳は、涙で滲みながらもまっすぐに輝いていた。
最後に、小紅が立ち上がる。
静かに、けれど揺るぎない声で。
「颯。私は、貴方が選んでくれて嬉しい。あの日名前を呼んでくれたみたいに――これからも、私たちを支えて。私は信じる。だから……颯も、私を信じて」
胸の奥が熱くなる。
彼女たちの言葉が、まるで光の環のように重なっていく。
社長が腕を組み直し、頷いた。
「これでいい。お前たちは輪になった。Open Haloは、これからもっと強くなる」
瑞稀も小さく笑みを浮かべる。
「数字じゃない。心だよ。今日のこの瞬間に、それが証明された」
俺は深く頷き、拳を握った。
「……ありがとう。これからも一緒に、走ろう」
その言葉に、四人の声が重なる。
「うん!」
光輪のような声が、会議室いっぱいに広がっていった。
瑞稀が腕を組み、頷きながら続ける。
「これで準備は整った。次は、パラダイスオーシャンを超える舞台だ」
その言葉に、場の空気が一斉に熱を帯びた。
胸の奥で燃えるものが、誰もに同時に伝わったのだろう。
解散の危機を越え、ようやく掴んだ継続の未来。
その先にあるのは、不安ではなく、新たな挑戦だった。
芽亜が両手をぎゅっと握りしめる。「……やっと、進めるんだね」
優子がふっと笑い、「負けっぱなしじゃつまんないし。次は私の番だな」
恋は目を潤ませながら、「颯がそばにいてくれるなら……怖くない」と呟く。
結は静かに視線をこちらへ送り、ただ頷いた。それだけで十分だった。
俺は拳を握りしめ、心の中で静かに決意する。
――もう逃げない。彼女たちと、この道を歩いていく。
⸻
会議が終わると、緊張の糸が解け、控室には柔らかな空気が戻った。
机に置かれた水のボトルが小さく転がる。その音に混じって、穏やかな笑い声が響く。
「颯がマネージャーなんて……ちょっと不思議だね」芽亜がからかうように言えば、
「でも、安心感あるかも。今まで以上に任せちゃおっかな」優子が笑いながら肘で突いてくる。
恋が小さな声で、「……これからもっと、頼りにしていいんですか?」と尋ねると、
「当たり前です。颯さんは、もう“仲間”ですから」小紅が断言するように言った。
その言葉に、胸の奥が熱くなる。
照れ隠しに俺は資料を整え、無言で頷くことしかできなかった。
窓の外には、夜の街が広がっていた。
光輪の夜は終わった。
けれど、物語はまだ続いていく。
次の舞台は、パラダイスオーシャンを越えたその先にある。
光と影を抱えたまま、それでも笑って歌い続ける彼女たちと――その背を支える役目を背負った自分と。
Open Halo。
開かれた光の輪。
俺たちは、その輪の先へ歩き出す。
眩しい未来を信じて。
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