第37章 光輪の夜、そして紙一枚

 海風が、会場の外壁をたわませる低い唸りを運んでくる。

 パラダイスオーシャン。海上に架けられた巨大なリング――光輪――が、夜のはじまりを薄く照らしていた。水面は黒に近い群青で、そこに舞台照明の色が落ちるたび、細い鱗のような煌めきが一斉に裏返る。音響のローが胸骨を撫で、遠くのジェネレーターがかすかに震えている。


 開演を待つ前室。

 狭い壁際の蛍光灯が白く瞬き、汗を拭うタオルの音や、ペットボトルを握り直す手の音がやけに響いていた。


 恋は両手を胸の前で組み、目を閉じて小さく祈っている。

「……大丈夫。みんながいるから」

 呟きは誰に向けたものでもなかったが、耳にした優子がそっと笑って手を差し伸べる。


「だったら、その“みんな”を信じなきゃね。練習でやった通りに、全力で」

「……うん」

 恋は小さく頷き、その手をぎゅっと握り返した。


 芽亜は壁際でスニーカーの紐を結び直していた。視線は鋭いのに、動作はやけに丁寧で、緊張を押し込めているのがわかる。

「結果を残す。それだけ考えればいい。……感情に流されたら、崩れる」

 その硬い声に、結が穏やかに答えを返した。

「でも……“結果のため”じゃないよね。私たちが歌って、届けたいから」

 一瞬だけ芽亜の手が止まり、そしてゆっくりと結んだ紐を引き締め直した。

「……そうだな。忘れるところだった」


 結は深呼吸をひとつ。両手で髪を後ろに撫でつけ、鏡に向かって小さく笑う。

「センターって言われても、ひとりじゃ立てない。……だから頼りにしてるから」

 その声は柔らかかったが、瞳の奥には確かな決意が宿っていた。


 四人の視線が、自然に交わる。

 誰も言葉を足さない。だが、沈黙の中で呼吸が揃っていく。

 舞台へと向かう足音が重なり始める直前――結が小さく口を開いた。


「……行こう。ここからが、私たちの“本当の始まり”だから」


 その言葉に、三人が頷く。

 握られた手の温度が、ひとりひとりの胸を強く押し上げる。


 ――そして。


 俺はステージ袖、照明卓とインカムの間に立っていた。小さなLEDが規則正しく点滅し、味のないガムを噛み続けたみたいな緊張が舌の奥に残る。

 手の甲に貼ったタイムコードのメモ――オープニング45秒、恋MC35秒、優子コラボ4分20、芽亜“座らない”ソロ3分40、結センター・カム4分、全体合唱5分、アンコール判定――視界の隅にあるだけで脈が整う。


 瑞稀の冷静な声がインカムに落ちる。

 同時に、コメント用モニターの流量が一段上がる。「#OpenHalo」「#光輪」「#解散しない」――タグが弾む。画面右上の同接の数字がじわりと増える。

 袖の向こうでは四人が円になって、短く手を重ねた。全員、インイヤーを指で押し込み、視線を合わせる。俺のいる暗がりまで、その呼吸の揃いが伝わってくる。


「10、9、8――」


 カウントに合わせて、フェーダーの指を置く。海風の押し返しを読んで、色温度を一段上げる。

 光輪のベース照明が、ふっと息を吸うみたいに明るくなり、曲の頭に合わせて一点、白が跳ねた。


 ――始まる。


 恋の声が、真っ直ぐに抜けた。

 最初の一言で、空気が変わる。張りつめすぎない、でも確実に掴む距離感。笑いが返り、コメント欄がじわっと暖色に傾く。


《来た!》《恋ちゃんMCで空気できてる》《解散とか言わせないぞ》


 袖から見える恋の肩は、過度に揺れず、台本の余白を自分の言葉で埋めている。MCのラスト2秒で俺は照明の色を切り替えた。合図を受けたように、優子がステップイン。コントローラを高く掲げ、カメラに“置きフリード”のエモート。観客席にいるキッズが指を突き上げ、後列の大人も笑って手を振る。


《ゲーム×歌なのに、歌がちゃんと芯》《この構成考えたやつ天才》《置きフリード出たw》


 優子の声は思ったよりも太く、語尾を遊ばせても音程が崩れない。バックで走る打ち込みを一段上げ、ダッキングを浅くする。海風が吹き上がっても、高域が飛ばない。

 “面白い”の波がちょうどピークに達したところで、芽亜が入ってくる。合図の一拍がなく、身体で拾うタイプの入り方。インイヤーに合わせて、俺はムービングライトのパンを早め、彼女の動線に薄い光の帯を置いた。


 芽亜は“座らない”。

 ステージを曲線に走り、波打ち際に立つみたいに、前に出る。海風が彼女の髪を押し戻し、でも声は一歩も退かない。

 その声に合わせて、光輪が内側から明滅する。LEDの粒が、彼女の呼吸に同調して呼吸するようだ。コメントの流量が跳ね、同接の数字がまたひとつ段を上がる。


《雨ちゃん、今日いつもより強い》《立って歌うって、こんなに気持ち良いんだ》《声の芯、太い》


 俺はフェーダーを撫でる手元に、海水の匂いを感じていた。塩味のついた空気が肺に入り、すぐに熱に変わって抜けていく。

 次は、結。


 センター・カム。

 光輪のまさに中心、白点の座標に彼女が立つ。暗転からの立ち上がりで、わずかに青が先行する。彼女の髪が紅を拾い、視線が高く固定される。

 振りの角度、手の開き、目線の跳ね――ぜんぶ正確で、正確すぎて機械的にならないギリギリのところに、人の温度がある。


《結ちゃん、安定感おばけ》《センターここにあり》《目線で引っ張るタイプだ》


 額面どおりの言葉じゃない。

 この“安定”を作るまでに、どれだけの反復と、どれだけの迷いが裏に沈んでいるかを、俺はもう知っている。


 四人合唱。

 海風が一段強くなる。旗がはためき、マイクのウィンドが微かに擦れる。芽亜が一歩、前へ。恋が身体で観客を呼ぶ。優子がコール&レスポンスを短く出し、結が真ん中で呼吸を深く吸う。

 照明卓の上で、俺は色を抜いた。過剰な演出を引き算して、声の輪郭を照らすための白と薄い金だけを残す。

 四つの声が重なり、海に反射して戻ってくる。それを音響が薄く伸ばし、もう一度空に上げる。

 光輪の内側が、脈動に応じて呼吸する。観客席の光が揺れ、コメント欄が白い洪水になる。


《ここで泣くのは反則》《“ここにいる”がこんなに強い言葉になるなんて》《解散? 笑わせるな》


 曲のラスト2小節。

 俺はカウントの半拍前に手を上げ、袖のオペと目で合図を取る。暗転の直前、結がほんのわずかに俺の方を見る。視線が結んだのは、一秒もない。

 でも、その一秒が、ここまで来た時間のすべてに触れた気がした。


 暗転。

 歓声。

 海風が、さっきまでよりも少しだけ優しく感じた。



 控室に戻る廊下は、潮と汗の匂いが混ざっていた。

 ひとつひとつの足音が跳ねるように弾み、笑い声は途中で抑えきれず破裂して、反響して返ってくる。紙コップの氷がからんと鳴っただけで、全員の喉が一斉に渇きを思い出す。


 ドアを押し開ける。

 熱気がそのまま吹き戻されるように、空気が一瞬、爆ぜた。

 中央には腕を組んだ社長。横では瑞稀がモニターにかじりつき、リアルタイムの数字とコメントを必死に追っている。


 次の瞬間、メンバーが一斉に雪崩れ込み――歓声が壁を突き破る勢いで弾けた。


「終わったあああっ!」

「やばい、海、最高! もう一回やりたい!」

「ティッシュどこ!? ……いや今日は泣いてない、泣いてないから!」


 声と笑いと涙が一斉に渦を巻く。

 身体中の筋肉がまだ震えているのに、不思議と軽い。胸の奥に残る熱は、これまでの努力をすべて肯定するように脈打っていた。

 まるで全員が、自分の限界を一歩越えた証明を共有しているかのようだった。


 その喧騒の中で、社長だけが動かない。

 まっすぐ俺を見据え、一歩だけ近づくと、低く、短く告げた。


「――よく、決断したな」


 その四文字に、何重もの意味が積み重なっていた。

 覚悟を試された夜のこと。失敗すれば終わりだった現場のこと。仲間を信じるしかなかった一瞬のこと。

 全部を飲み込んだ重さが、その言葉に宿っていた。


 返事を口にする必要はなかった。

 喉まで出かかった言葉を飲み込み、代わりに深く頷く。

 ――それで十分だ。ここにいる全員が、結果で理解している。


 社長は短く息を吐き、ほんのわずかに目元を和らげた。

 硬い糸が一本だけほどけるような、そんな顔だった。


「機材、後処理頼む。潮風で端子がやられる前に」


「了解」


 声を返した瞬間、胸の奥にあった緊張が一気に解け、圧縮されていた達成感が一斉に広がった。

 それはただの成功ではなく――人並みを超えた「到達点」に立ったのだと、身体の芯が理解していた。


 俺は工具袋を肩に掛け、照明卓の電源を順番に落としていく。

 ムービングのホームポジション、OK。フロアの配線、クリップ確認。DMXの終端、再チェック。ケーブルをひと束、またひと束、輪にして結ぶ。

 その合間にも、耳の奥ではまだ合唱の最後の和音が鳴っている。残響が、骨に残る。


 壁に掛けた時計は、日付の境を越えそうだった。

  控室ではまだ笑いが止まらなかった。


「MC、次はもう少し間を短くしたほうがいいかも」

 恋が椅子に腰を下ろしながら両手をぶんぶん振って、反省とも照れともつかない声をあげる。


「えー、でも今日の間、逆に好きだった」

 優子がスマホを掲げて見せた。

「それより見て。スコア、自己ベスト更新。ほら、これ。数字が伸びる瞬間、鳥肌立ったもん!」


「ずるい! 一人で盛り上がって!」

 恋が即座に突っ込む。


「いやいや、みんながいたからでしょ」

 優子が笑い返すと、周りも一斉に吹き出した。


 芽亜はその横で、ペットボトルを一気に空けると、肩で息をしながらぼそり。

「……まだ行ける」


「うわ、バケモノだ」

 天が目を丸くして叫ぶ。

「喉、もう一ステージ分あるの? やば」


「冗談。でも――やれる、って思っちゃった」

 芽亜の硬い表情にも、確かな熱が滲んでいた。


 そして――小紅。

 彼女は静かに笑っていた。

 泣きそうな目尻を、笑顔で押しとどめながら。


「……ありがとう」

 そう言った途端、恋が先に堪えきれずに抱きついた。


「結ちゃん、やばかった! 今日のセンター、ほんとに……!」

 その声も涙でぐしゃぐしゃだった。


「ちょ、ちょっと……みんなの汗でびしょびしょになる……」

 小紅が言いかけるが、もう遅い。優子も芽亜も次々と肩を寄せ、最後に天まで加わる。


「わたしも! ねえ、こんな景色、ほんとにあるんだね!」


 五人がぎゅっと一つに重なる。

 汗と涙と笑いが混ざって、誰の声が誰なのかわからなくなる。

 「やばい」「最高」「信じられない」「まだ夢みたい」――言葉が重なり、笑いが震えて、涙がこぼれても止まらない。


 その輪の外で、スタッフがそっと機材を運び出していく。

 廊下に残る潮の匂い、差し入れのサンドイッチの甘い香り、紙コップがごみ袋に落ちる軽い音――どれも背景にかき消されていった。


 ただ、この瞬間だけは。

 控室にいる全員が、世界のどこよりも眩しい光に包まれていた。



 そのときだ。

 机の端、資料の山とペットボトルの隙間に差し込んであった一枚の紙が、ひらりと表に出た。

 誰かが空気を読んで窓を開けたのか、潮風の帯がすっと滑り込み、薄い紙の縁を持ち上げたのだ。


 それを見つけたのは、小紅だった。

 彼女は、手を止めた。

 紙を指先でつまみ、光の方へ傾ける。


 大学の届け出の様式――退学・休学・特別受験についての申請用紙。

 印刷された事務的な書体。網掛けの注意書き。提出期限。担当窓口。

 そこに、俺の名前が薄い鉛筆書きで仮記入されている。選択欄のどこにも、まだチェックは入っていない。


 小紅の喉が、かすかに動いた。

 まぶたが一度、ゆっくりと閉じ、開く。

 視線が紙から離れないまま、彼女は呼吸を整える。

 周囲の笑い声は遠のき、時計の秒針の音だけが妙に大きくなる。


 俺は、動けなかった。

 工具袋の持ち手を握ったまま、そこに立ち尽くす。

 インカムのコードが指に絡み、指先の皮膚感覚が急に鮮明になる。喉の奥の塩味、肺に残る冷たい空気――さっきまで舞台の上で当たり前だったものが、急に異物みたいに重さを持つ。


 小紅は、紙から目を離さない。

 口が、何かを言いかけて、止まる。

 言葉になる直前の“気配”だけが、控室の空気を静かに圧していた。


 俺は息を吸い、吐いた。

 何かを言わなきゃいけないのに、言葉が喉の手前でほどけて形にならない。

 海風が、もう一度、紙の端を揺らした。


 光輪の夜は、たしかに勝利で終わった。

 だが、幕の下りた舞台の影で、別の幕が、いま持ち上がろうとしている。

 その幕の向こうにあるものを、俺は知っている。彼女も、もう知ってしまった。


 ふたりのあいだに、一枚の紙が横たわっている。

 静かな、けれど無視できない、現実の重さをもって。

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