第15章 小さな炎上
配信を切ったスタジオは、温度だけが一拍遅れて落ちていく。
リングライトの熱が薄れ、ガラス窓にうっすら指紋の模様が浮く。
机の上、三部の台本がきれいに揃い――四部目の白紙だけが、風でふわりとめくれた。
バイブ音。
スマホの通知が踊る。
《切り抜き出てる》《“ロボ声事件”》《空気悪い回》《天バニ喧嘩?》《雨だけやる気》
浅い棘が、指先をちくちく刺す。
「……片すね」
結が最初に動き、ケーブルを手際よく丸める。
天は立ったまま、笑顔のくせに視線が宙を彷徨う。
バニラは台本を閉じ、唇の端だけで息を吐いた。
雨は黙ってマイクの角度を戻し、布でヘッドを拭く。儀式みたいに丁寧だ。
沈黙が三つ、折り重なってから、バニラが口を開いた。
「配信中は、場を守らなきゃいけない。……“遊び”は否定しない。でも、順番がある」
「わかってるよ。だから、機材のミスもあったし――」
「それと、スタッフの名前を出すのは駄目。観客に“裏”を見せるのはプロの仕事じゃない」
声は低くない。怒鳴ってもいない。ただ、揺るがない線で囲むような語尾だった。
天の肩が、ぴくりと跳ねた。
「でもさ、黙って黙って、顔だけ笑って、苦しい時もずっと“いい子”でいるの? それ、私じゃない」
「“あなた”を守るための段取りだよ。自由に見せるための、枠」
「枠に押し込められてるように見えるの。配信は、もっと、私が――」
「“私が”じゃない」
雨の、短い刃。
空気が鳴った。
結が慌てて割って入る。
「待って。今日はたまたま、重なっただけ。天も、バニラも、間違ってない。次、調整すれば――」
「“次”のためには、“今”の言葉が要る」
雨の瞳は冷たくはない。ただ、波紋が少ない。
「面白いのは、いい。けど、怖い。歌の入りが壊れるのは」
天が下唇を噛む。
バニラはその視線を受け止め、逸らさない。
結の声は正しいのに、正しさが滑っていく。指の間から零れる砂みたいに。
俺は深呼吸した。
心理学の講義で習ったラベル付けの技法が、勝手に舌の上に乗る。
感情に名前をつける。責めない言い方で。
「……ごめん、まず俺から。ミキサーのプリセット、管理が甘かった。天のロボ声は、俺のミスが引き金だ」
天が弾かれたみたいにこっちを向き、首を横に振る。
「いや、私が暴れたから――」
「順番にする。今、責任の取り合いをするとこじゃない。まず“何が怖かったか”を、言っていい?」
雨が少しだけ目を細めた。
俺は、彼女の正面に立つ。
「雨。歌の入りが壊れるのが、怖かった」
「……うん」
「次の小節、どう入るか。声の質感、ブレスの回し。そこに他の音が被るのが、怖かった」
「……うん」
「それを“怖い”と口にするのは、正しい。ありがとう」
雨は少しだけ肩の力を抜いた。顎が一センチだけ下がる。それが“ほどけた”合図だ。
次に天へ向き直る。
「天。ウケの空気が死ぬのが、怖かった」
天の目が、見開かれる。
「“楽しい”を守るために、場が静まるのが耐えられなかった。ふざけるのは、逃げじゃない。あなたなりの“守り”だった」
「……うん。そう、だと思ってた。けど、みんなの顔、固まってて……余計、焦って」
「焦りも、正しい。今、それに名前がついた」
バニラに視線を移す。
「バニラ。ブランドが崩れるのが、怖かった」
「……そう。『Open Halo』であるための型を、裏で作るのが私の役目だから」
「段取りは檻じゃなく、滑走路。正しい。でも“滑らない”と身動きが取れなくなる。だから――」
結を見る。
結は一歩、俺に近い場所へ来てくれていた。
「結。みんなを守らなきゃって、背負い過ぎて、声が薄くなるのが怖かった」
「……見えてました?」
「見える。だから今日は、薄くなる前に言葉を置いた。謝らなかったのも、正しかった」
結が、ほんのわずか、目を伏せて笑った。救われる音が鳴る。
息を整えて、俺は四人の中心に立つ。
「提案を三つ。短い“合図”を決めよう。合図は、相手の顔を守るためにある」
指を一本、立てる。
「一つ。“三十秒の砂時計”。誰かが左手首を二回トントン叩いたら、その話はあと三十秒で切る合図。止める権利じゃなく、“次に渡す勇気”の印」
天が自分の手首を見て、真似をしてみる。
「二つ。“歌前の静寂コード”。歌に入る十五秒前、天もバニラも“静寂”に移る。盛り上げの言葉は、歌の後に回す。雨が息を吸う音を、全員で聴く」
雨の視線が、初めて柔らかく揺れた。
「三つ。“裏合図を表にしない”。裏方の名前は出さない。事故は“私たちの都合”で処理する。ミスは俺が呑む」
バニラが、ゆっくり頷く。
「短い。覚えやすい。良い」
「ルールは、守るためだけにあると窮屈になる。誰かの顔を守るために“使う”なら、優しくなる」
俺は肩の力を抜いた。
「今日は、無理に仲直りしなくていい。ただ、次の“冒頭十五分”だけ、四人の歩幅を合わせたい」
沈黙。
照明の明滅が一度だけ起こり、ブレーカーが安定音を取り戻す。
天が先に息を吐いた。
「……ごめん」
その“ごめん”は、誰に向けたでもなく、場に向けた響きだった。
バニラが続ける。
「次、私が“拾う”。天の勢いを、段取りの中に入れる」
「拾えるように、振る。言葉、短くする」
雨の声は、さっきより温度が高い。
「……私も。背負いすぎない。振るから、頼る」
結の目が、少し潤んだ。けれど、涙にはならない。
スマホが再び震える。
《まとめサイト、別記事で“機材トラブル”扱いに》《切り抜き再編集、空気やわらいだ》《鎮火の兆し》
外側の火は、小さくなるのも早い。
俺は社長――姉にだけ、短いメッセージを打つ。
〈謝罪はせず、次回告知で“改善します”文言を入れる。いい?〉
〈そうしな。燃料を投げるな。未来形で終われ〉
片付けは十分で終わった。
スタジオのドアを閉める前、天が俺の袖をつまんだ。
「……あのさ。私、“三十秒”うまくできるかな」
「できるよ。しゃべるの、好きだろ。好きなものは、短く熱くが一番伝わる」
「そっか。……ね、ありがとう」
照れた笑顔。先ほどの焦燥の影は、もうほとんどない。
廊下の角で、バニラが待っていた。
「今度、台本、“空き”を増やす。三十秒の箱をいくつか。……で、さ」
「ん?」
「“謝る”は、私の仕事。次もし事故ったら、私が“次の楽しみ”に変える。観客の目は、前を向かせる」
「頼もしい」
バニラの笑みは、完璧だ。でも、その完璧さは檻じゃない。鍵のかかった引き出しに、ちゃんと“遊び”のスペースができた顔だった。
防音ブースの中、雨がまだマイクスタンドと向き合っていた。
「息の音、拾えた?」
「拾えた。……聴こえてた?」
「うん。俺にも、聴こえた」
雨は、ほんの少しだけ口角を上げる。
「じゃあ、次は、もっと聴かせる。皆にも」
最後に、玄関の前で結が立ち止まる。
「私、今日、守れてたかな」
「守ってたよ。無理に謝らないって、勇気がいる」
「……“センターだから”って言いすぎる癖、やめたいな」
「“結だから”でいい。センターは、その次でいい」
結は、はにかむ。
「……“結”って呼ばれるの、助かる」
小さな声。誰にも聞かせない音量。
俺は頷くだけで、何も足さなかった。
⸻
夜。
事務所の公式アカウントで、短いツイートが出た。
《本日の配信、機材調整の不備がありました。次回は新しいコーナーと共に、より楽しい時間にします。来週も遊びに来てね。#OpenHalo》
謝罪ではなく、未来形。足りない火に、燃料を投げない。
切り抜き動画の再生数は夕方をピークに落ち着き、タグはいつもの雑談に呑まれた。
“空気の棘”は、風のようにどこかへ行く。
けれど、残るものがある。合図。三つの約束。十五分の静寂。
電車に揺られながら、窓に映る自分の顔が少しだけ違って見えた。
責任から逃げるために来たはずの場所で、俺は“誰かの顔”を守るための言葉を覚え始めている。
これは多分、悪夢の続きではない。
呼吸の合った、最初の一歩だ。
ポケットの中でスマホが震えた。
〈三十秒、練習中〉
天から。
〈次、静寂、聴かせる〉
雨から。
〈“箱”用意する〉
バニラから。
〈……頼る練習、する〉
結から。
通知の光が一つずつ消えて、夜が深くなる。
音のないところで、音楽の準備は始まっている。
小さな炎上は、もう跡形もない。
残ったのは、四人分の息の合図だけだ。
電車の揺れと一緒に震えた通知:「成績注意喚起:このままだと進級要件未達」。既読はつけない。次の“静寂”の方が先だ。
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