第16章 交わらない本当の名前

 イベントのチラシは、机の上に山のように積まれていた。

 「V-Fes 20XX」――現役アイドル・平山明日香が主催する、大規模コラボイベント。

 Vtuberとアイドルが境を越えて交わり、新しいステージを作るという触れ込み。


 俺は最初、紙面の派手さに気圧されて固まった。

 彼女の名前はさすがに聞いたことがある。教室や電車内で、広告やCMで、誰もが一度は見ている。

 そんな大物が主催する場所に、Open Haloが呼ばれるなんて――普通に考えれば場違いに思える。


(……足を引っ張らないようにしないと)


 その思いが、喉の奥に刺さる小骨みたいに引っかかっていた。



 準備は怒涛だった。

 打ち合わせ。リハーサル。出演者同士の顔合わせ。

 普段の配信やレッスンに加え、台本確認や段取りの擦り合わせまである。


「ここ、入場曲の後のMCで五秒空けてください」

「すみません、もう一回お願いします!」

「リハは三分押しです。次のグループ急いで!」


 現場は熱気と焦燥の坩堝だった。

 他の有名Vtuberたちは、慣れた表情でカメラの前に立つ。

 Open Haloの四人は緊張で固くなりながらも、必死にリズムを刻んでいた。


 俺はスタッフとして動き回り、ケーブルをまとめ、照明チェックの時間を伝え、リストを確認する。

 姉に渡された台本には、細かい注意書きが赤字でびっしり。

 それを頭に叩き込みながら、ただ走り続けるしかなかった。


 合間の休憩。

 人のざわめきが遠のいたファミレスの窓際で、俺と結は二人きりだった。

 偶然なのか、運命の悪戯なのか――最初に一緒に入った、あの店と同じ場所。

 だけど今、テーブル越しに座る彼女の表情は、あのときよりもずっと違って見えた。


 メニューを開いた結は、相変わらず最初に値段を確認していた。

 ページをめくる手が、ためらいがちに同じ箇所で止まり、そっと財布へと視線を落とす。

 その仕草に、彼女がまだ「日常の重み」を引きずっていることを思い知らされる。

 センターだからこそ、グループの看板を背負い、華やかなステージに立つはずの彼女が――同時に、普通の少女として金額に怯える。


「……またか」


 俺は苦笑し、先に口を開いた。

「気にしなくていい。今日も俺の奢りだ」


 結は一瞬、眉を寄せた。

「……いつもすみません」

「俺が誘ったんだから、当然だろ」


 このやりとりは、もう何度目だろう。

 表面上は遠慮していても、彼女の中に少しずつ「頼る」という選択肢が芽生えてきている。

 以前はぎこちなさに縛られていた笑顔が、今は柔らかさを帯びているのを俺は見逃さなかった。



 料理を待つ間、俺は切り出した。

「……みんなの様子、どうだ? 前と比べて」


 グラスの水を口に運んだ結は、ゆっくりと視線を落とす。

 彼女にとって“仲間”の話をすることは、同時に“自分”を語ることでもある。

 センターである自覚を抱えるからこそ、言葉の重みは彼女の責任感そのものだった。


「……変わりました」


 短く答えた声には、自分に言い聞かせるような確かさがあった。


「天ちゃんは勢い任せじゃなくて、空気を読むようになった。……それでも、まだ衝動的に動くことはありますけど」

 その声音には、姉のような目線と、同じ仲間としての親しみが同居していた。


「バニラは……前より表情が豊かになった気がします。配信のとき、ファンのコメントに照れた顔を隠しきれなくなってて……それを見てると、ああ、この子も少しずつ変わってるんだなって思うんです」

 その言葉に、バニラの不器用さを肯定する優しさがにじんでいた。


「雨ちゃんは……相変わらずですけど」

 そう続けて、結は小さく微笑む。


「“相変わらず”ってのは、悪い意味じゃないんです。ブレない人が一人いると、全体が落ち着くんです。……どんなに私が迷っても、あの子がいる限り、グループは前に進める。だから、大切なんです」


 語りながら、彼女の瞳に静かな熱が宿る。

 その声は、責任を抱えながらも仲間を信じている――まさにセンターとしての重みを帯びていた。

 同時に、ひとりの少女が「信じることで自分を支えている」姿でもあった。



 やがて料理が運ばれてくる。

 結はゆっくりと箸を取った。選んだのはポキ丼。初めて一緒に来たときと同じ。

 俺の皿には、変わらずハンバーグ定食が置かれている。


「……なんだか懐かしいですね」

「まだ一か月も経ってないぞ」

「でも、すごく前のことみたいに感じます」


 結はそう呟き、丼の具材を口に運ぶ。

 目を細める仕草は、ほんのひととき、アイドルではなくただの女子大生のようだった。


 俺はフォークを持ちながら、ふと彼女の横顔を見つめてしまう。

 最初に出会ったときの硬さは消え、今の彼女は自然体に近づいている。

 その変化が、俺の胸を少しざわつかせた。


(……心を開いてきてる。そう思っていいのかもしれない)


 けれど同時に、胸の奥にもう一つの問いが渦を巻いていた。

 芸名と本名の境界。

 社長に「徹底しろ」と言われた掟。

 その線を越えない限り、俺は本当の彼女には届かない。


 彼女はセンター。仲間を導く存在。

 俺はまだ、そこに立つことを許されないただのサポート役。


 その立場の差が、俺の言葉を飲み込ませる。

 聞きたいのに、聞けない。触れたいのに、触れられない。

 両者の境界線が、俺の心を締めつけていた。

 


 会計を済ませ、店を出る。

 夕暮れの空は、赤から紫へとゆっくりと溶け合う最中だった。

 街灯が一つずつ点り始め、歩道に淡い光を落とす。

 アスファルトに伸びる影が並び、俺と結は肩を並べて歩いていた。


 別れ際。駅へと続く道の途中で、俺は迷った末に口を開いた。

「……結。ひとつ、聞いてもいいか?」


 彼女が小首を傾げる。

 その仕草は無邪気に見えるのに、俺の胸は重く高鳴っていた。


「なにか?」


 喉の奥がひどく乾いている。

 本当は、ずっと気になっていたこと。

 彼女の笑顔の裏にある、もうひとつの名前。


「本当の……名前は――」


 言葉が形になるより早く、結の足が止まった。

 驚いたように目を見開いたその瞳は、次の瞬間、揺らぎを隠すように伏せられる。

 そして彼女は小さく首を振った。


「……ごめんなさい」


 その声は、風にさらわれそうなほど細く脆い。

 だが同時に、彼女の微笑みは舞台用の仮面のように整っていた。

 素顔を閉ざしたまま、観客に向ける笑みのように。


「いつか……話せる時が来たら」


 それだけを残し、結は小さく頭を下げると、駅の方へと小走りで去っていった。



 俺は立ち尽くした。

 夕暮れの残光が街並みに沈み、夜の気配が静かに迫ってくる。

 背を向けて遠ざかる彼女のシルエットは、街灯の光に淡く揺れながら、どこまでも遠い。


 心を開いてくれているように見えても――その奥にある「本当」には、まだ触れられない。

 名前。それはただの呼び方じゃない。

 彼女にとっての仮面と真実を分ける、最後の境界線。


 胸の奥で、俺は言葉を押し殺すように呟いた。

(……いつか必ず、その境界を越える。だが今は――まだ早い)


 息を吐き、足を逆方向へと動かす。

 夜の街はざわめき、遠くでネオンが瞬いていた。


 秘密はまだ閉ざされたまま。

 けれど、確かに彼女の仮面の下へ手を伸ばしかけている――その実感だけが、俺の背を押して前に進ませた。

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