第14章 乱れた配信
夕方の小スタジオは、白いリングライトが四つ、目玉のようにこちらを睨んでいた。壁に立てかけた簡易グリーンバック、テーブルにはミニキーボードとインターフェイス、カメラは三脚の上で赤い待機ランプを弱く光らせている。
俺はモニター前、音量メーターを見つめながら深く息を吐いた。配信ソフトのプレビューには、Open Halo の四人――紅結、東村雨、恋乃天、推藤バニラ――がフレームに収まっている。衣装ではなく、私服寄りのシンプルなトップス。距離は少し狭い。机の上には配信用の台本が三部。……三部?
「颯さん、BGMフェードはこことここでお願いします」
バニラが台本を指先でトントン叩く。完璧な笑顔だが、目の奥は数字と段取りを高速で計算している。
「りょーかい。確認する」
「天、ジングル後の一発目、“自己紹介ショート”だよ? “ながら”で脱線しないでね」
「はーいはーい、わかってるって。今日は任せて!」
天は椅子でクルリと回り、ピースを作る。いつも通り、といえばいつも通りだ。
結は薄く肩を回してから、鏡で前髪を整えた。緊張も疲れも、顔には一切出さない。
雨は、マイクの角度をミリ単位で直してから、何も言わず「OK」の視線だけ寄越した。
――カン、という指先の合図。
五秒前。四、三、二――。
「Open Halo の配信、はじまります」
結の声が入った瞬間、チャット欄が泡のように増殖した。
《待ってた》《通知来た!》《今日は四人だ!》《雨ちゃんの新曲ワンチャン?》《天ちゃん元気か~?》《バニラ様~!》
同接はいつもより少し多い。小さな山、ほどよい緊張。
「センターの紅結です。よろしくお願いします」
「歌担当の、東村、雨」
「わーっ! 恋乃天でーす! 今日はさあ、マジで――」
「推藤バニラ。今日も“予定通り”楽しませるよ」
バニラが軽く目を細め、台本の端を押さえる。天の方は、早くも体が前のめりだ。
「最初のコーナー、“最近の小さな幸せ”」
結が合図を送る。
「じゃあ、天から」
「はーい! あのね、聞いて。こないだコンビニで新作の――」
「三十秒でお願いします」
「三十秒? ムリムリ、足りないって!」
天が笑いながら身を乗り出し、机の角に肘をぶつけた。カメラがわずかにカタリと揺れる。チャットが小さくざわめく。
《揺れたw》《地震?》《草》《これは演出》
「大丈夫、天?」
結が笑顔のまま目だけで問いかける。
「余裕! でね、新作の唐揚げ、ソースが――」
「“三十秒で”」
バニラの声色は柔らかい。だが、芯がある。
「え~っ、じゃ結にパス! はい幸せどうぞ~!」
天が突然、結の肩を軽く叩いた。反射的に結の笑顔が一段硬くなる。
《天ちゃん強引w》《結ちゃん困ってる?》《バニラ様の顔こわ…》《雨ちゃん無表情最強》
この瞬間、わずかに空気がねじれた――と俺は感じた。
天の“勢い”と、バニラの“段取り”。二つの正義が正面衝突する前の、微かな予震。
「じゃあ私は……」
結は呼吸を整え、台本にない話を仕立て直す。
「朝、事務所に来たら、ブースのマイクがすごく綺麗に並んでて。誰がやってくれたのかなって――」
「わたし」
雨が短く入れる。
「ありがとう。ああいうの、嬉しくて」
「……うん」
雨の返事は短い。けれど嘘は混じらない。
《雨ちゃんそういうとこ!》《語彙少ないの好き》《職人》《結ちゃんの回収うまい》
「はい、ここでジングル入りまーす」
バニラが笑顔のまま、視線だけで俺に合図。俺はフェーダーを落とし、ジングルを二秒フェードイン。メーターは問題なし――のはずだった。
ピッ。
次の瞬間、天のマイクだけ、エフェクトが“乗った”。
ピッチが半音上がり、微妙なロボ声。
「やっほー! 恋乃天でーす♡」が、「ヤッホー! コイノソラデース♡」に変換され、チャットが爆発的に動く。
《www》《声バグった?》《天ちゃんロボw》《事故だ!》《スタッフ~!》《かわいいから許す》
まずい。俺はミキサーの天チャンネルを確認する。先週のゲーム配信用に“ピッチ補正”をプリセットしたままだ。フェーダーは合ってる。だがインサートが――。
俺がオフに切り替えようとした、その前に。
「ちょ、天、“オフコメ”使ってないときは遊ばないの。今は“トーク”」
バニラの笑顔が一段、固くなった。
「え、私じゃないよ!? 颯さ――じゃなくてスタッフさーん!」
天が笑いながら、机の下に顔を潜り込ませるふりをする。カメラのフレームから視線が外れ、チャットのノイズが増える。
《スタッフのせい?》《裏方の名前出すのはやめよ》《空気やば》《これ喧嘩?》《天ちゃん可愛いけど今日は暴れすぎ》
「ごめん、少しだけお待ちください」
結が即座に“謝罪”の言葉を置いた。良かれと思って。
だが、その一言は“事故”を公式化する。
俺は歯を食いしばり、インサートを切ってピッチを戻す。遅くても二秒。だが二秒は、配信では永遠だ。
「戻った? 戻ったね。はい、じゃここから“歌前トーク”」
バニラが強めに切り替える。
「今日は、雨の“ハモり”に注目してほしいの。リハですごく良かったから」
雨は軽く首を傾げただけで、頬に薄い影を落とした。
「……本番、がんばる」
《雨ちゃん信頼》《バニラ様の仕切り助かる》《さす姐》《天ちゃん静かになった?》《結ちゃん大変そう》
天は、笑顔のまま膝の上で手をぎゅっと握っている。
視線が泳ぐ。盛り上げたい、ウケを取りたい、でも怒られたくない――その葛藤が、画面越しに透けてしまう。
結が横目で天を見る。制止ではない、救いのサインだ。けれど、言葉は追いつかない。
「それじゃ、一曲目。『Open the light』」
結の声でBGMを切り、オケを上げる。
歌い出しは雨。
――美しかった。空気が一瞬で澄んだ。まっすぐで、嘘ひとつない音程。
天は二番で合いの手。バニラはコーラスで支え、結は全体を包む。
曲だけを切り出せば、誇れる出来だった。だが、チャットは曲に没入しきれない。
《さっきの空気まだ引きずってる》《歌はいい》《雨の声バケモン》《天ちゃん笑って》《バニラ様怖い》《結ちゃんがんばってる》
曲が終わる。拍手スタンプが飛ぶ。その中に、わずかな棘が混じる。
次のMC。
「えっと……」
結の声がわずかにだけ揺れた。天がすかさず被せる。
「みんな聴いてくれてありがとー! さっきのはね、えーっと、ドッキリで――」
「ドッキリでは、ない」
雨が即答。
空気が、凍った。
《正直w》《雨ちゃん容赦なくて草》《ドッキリは嘘だよね》《やっぱ仲悪い?》《いやいや歌は良かったって》
バニラは笑顔を崩さない。だが、声色の明度が一段下がった。
「“事故”は事故。次はもっと良くする。ね、天」
「……うん」
天は小さく頷き、笑顔を作る。そこに猛スピードで涙が駆け足するのを、カメラはとらえない。プロのライトは、都合よく“潤み”を消す。
結は、もう一度“謝らない”ことを選んだ。賢い。謝るたび、空気は重くなる。
「次のコーナーは“お便り読み”です。みんな、いつもありがとう」
彼女はほんの少しだけ、声に温度を乗せた。
――それでも、チャットは先ほどの棘を忘れきれない。
《お便りよりさ、さっきの説明は》《プロなんだから》《事故配信助かる》《切り抜き班がんばれ》《空気も芸》
俺は、モニターの右下にある小さな数字を見る。
視聴者数は維持。だが、滞在時間のグラフがさざめき、心拍のように不規則に脈を打つ。
スタジオの空調音がやけに耳についた。指先の汗が冷たい。今、俺にできるのは“崩さないこと”だけだ。
演者は前。スタッフは影。配信中の介入は最小限――それがルール。
お便りコーナーは、結の手綱でどうにか折り返した。
最後のフリートーク。
「じゃあ、今日はここまで。またね」
結の手の振りで、エンディングBGM。画面右上のチャイムが小さく鳴る。
《おつ!》《おつはろ》《おつあめ》《おつそら》《おつばに》《なんかピリついてたな》《次、期待》
配信終了――のボタンを押す前、ワンテンポだけ迷う。
心臓の鼓動が、マウスのクリックより先に動いた。
カメラの赤いランプが消え、リングライトが徐々に熱を失っていく。
静寂。
「……終わりました」
俺が言葉を落とすより先に、椅子がきしんだ。天が勢いよく立ち上がり、空を仰ぐ。
「ごめん。私、やらかした」
その声はかすれている。強がりの膜が、一枚だけ破れていた。
バニラは台本を閉じ、笑顔をようやく畳んだ。
「配信中は“私たち”だから。終わった今は、言っていい。――次は、守って」
雨はマイクを丁寧に外し、テーブルにそっと置いた。
「歌は、もっとできる。空気は……知らない」
結は一歩前に出た。センターとして。
「……私が、もっと上手く回す。責めないで。誰も」
その声は正しい。けれど正しさは、ときに届かない。
スマホが震え、通知が雪崩れ込む。
《切り抜き「天ちゃんロボ声事件」上がってる》《“空気悪い回”がタグに》《まとめサイト拾った》
俺は画面を伏せた。今、見せるべき顔は前にある。
「片付け、やります」
俺の言葉に、四人が一斉にこちらを見る。役目は分かっている。
配信は終わった。けれど、配信は終わっていない。外側のざわつきは、これからだ。
この小さなスタジオから外に出るまでの廊下が、やけに長く感じられた。
序盤の山は、思ったより滑りやすい。
だが、転ばない歩き方は、誰も知らない。
⸻
夜、スタジオの空気が入れ替わる。リングライトは冷たく、カメラは目を閉じた。
机の上に置かれた三部の台本の端が、エアコンの風でめくれる。四部目の白紙が、静かに重なっていた。
俺はそれを、そっと押さえる。
――次は、崩さない。
約束は、まず自分に向けて結ぶものだ。
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