第13章 親睦会と花粉と
事務所の掲示板に貼られた一枚のプリント。そこには大きな字でこう書かれていた。
「颯の歓迎親睦会 BBQ」
「――親睦会をやるぞ!」
社長――いや、俺の姉が両手を大げさに広げて放ったその一言は、ほんの数日前のことだった。
あまりに唐突で、場にいた全員が一瞬ぽかんとする。
「……親睦会?」
「今さら、ですけどね」
「そうそう。もう結構働いてるでしょ」
メンバーが口々に突っ込む。俺も思わずカレンダーを見直した。入ってから、もう一か月以上が過ぎている。今さら「歓迎会」ってどういうつもりだ。
「まあまあ、やらないよりはマシでしょ」
姉は悪びれもせず笑って言う。その軽いノリに、余計に脱力する。
(……いや、絶対忘れてただろ。仕事のドタバタで先延ばしになったやつを、今さら“企画してました”みたいな顔で言いやがって)
心の中でぼやきながらも、どこかで少し期待してしまう自分もいた。
当日。
公園の広場にブルーシートと鉄板が並べられ、炭の匂いが鼻をくすぐる。トングを持った結が笑顔で肉を並べ、恋が飲み物を配り、芽亜と優子が野菜の準備でわちゃわちゃしている。
(……意外とちゃんとしたBBQだな)
俺は火の勢いに顔をしかめながら、冷えた缶ジュースを片手に様子を眺めていた。
「さあ、今日はたくさん食べていいからな!」
姉が景気よく声を張る。
「遅れてきた歓迎会だけど、せっかくだし楽しもう!」
恋が笑って乾杯の音頭をとると、紙コップがいくつも打ち合わさった。
俺も口をつけようとした、その時だった。
「……けほっ」
隣から控えめな咳が聞こえた。振り向くと、結が鼻を押さえて目を瞬かせている。
「結? 風邪か?」
「いや、大丈夫。そんなことより――お肉焼けてきたよ!」
彼女は笑顔を作りながらトングを振る。だが声が妙に鼻にかかっていて、どうにも無理をしているように見える。
天が心配そうに眉を寄せてジュースの栓を抜いた。
「無理しないでね? 風、強いし……」
――その直後。
「へっくしゅんっ!」
鉄板の上の肉が揺れるほどの大きなくしゃみが炸裂した。煙が舞い上がり、周囲から笑いと驚きの声が混ざる。
「ちょ、結、大丈夫!?」
「だ、大丈夫だから!」
結は慌ててトングを握り直し、笑ってみせるが、頬はうっすら赤く、鼻の頭を指でこすっている。
「……あー、この時期はまずかったか」
姉が腕を組み、空を見上げて呟いた。
「ちょっとずらせば平気かと思ったけど、今日は風が強いからな」
「どういう意味ですか?」
俺が問いかけると、姉は肩をすくめて答える。
「決まってるだろ。花粉だよ」
「……花粉症ね」
雨が淡々と告げた。冷静な一言が、場に妙な説得力を与える。
「ほんとに平気だって! ほら、お肉冷めちゃうから!」
結は笑顔を必死に浮かべるが、次の瞬間にはまた、
「へっ……ぐじゅん!」
再び盛大なくしゃみ。煙と一緒に空へ流れていく。
網の上では肉が焦げはじめ、慌てて芽亜と優子がフォローに回る。
笑いながらも心配する仲間たち。
――歓迎会は、思わぬ花粉との戦いに変わりつつあった。
社長が「仕事がある」と言い残して去っていった後。
残された俺たちの前では、焼き網の上で肉と野菜がじゅうじゅうと音を立てていた。
香ばしい匂いが立ちのぼり、風に押されて白い煙が揺らめく。
その向こうには青空が広がり、夏の光に照らされた景色が、妙に鮮やかに見えた。
俺はトングを握ったまま、目の前に並ぶ顔ぶれを順に眺める。
それぞれの仕草や表情が、火の熱と煙の中で、どこか舞台の一幕のように映った。
「うわっ、いい感じに焼けてる!」
真っ先に声をあげたのは天だった。
皿を片手に駆け寄ってきて、網に乗った肉を覗き込む。
「ちょっと待て。まだ赤いだろ」
「大丈夫大丈夫! お腹のほうがもう待てないんだから!」
軽口を返すと同時に、彼女は遠慮なくトングから一枚つまんでいった。
熱気で顔を赤らめ、ふうふうと息を吹きかけながら、頬をいっぱいに膨らませて噛みつく。
「っあつ……でも、おいしい!」
弾けるような笑顔。その勢いに釣られて、思わず俺も笑ってしまう。
⸻
「……やれやれ。焦って食べて火傷でもしたらどうするのよ」
呆れたように呟いたのはバニラだ。
視線は肉から逸らさず、真剣な目つきで焼き加減を見極めている。
「肉はね、片面をきっちり焼いてから裏返すの。中まで火が通る前に割ったら、肉汁が逃げちゃう」
「おいおい、なんでそんな専門家みたいに」
「配信で“焼き加減講座”やったことあるの。こういうの、意外と需要あるんだから」
どや顔で胸を張るバニラ。
その様子に、天が頬を膨らませて口を尖らせた。
「私は味さえついてれば十分だもん!」
「……バカ舌」
「なっ……何だとー!」
二人の言い合いが弾むたび、焼き網の上で火がぱちぱちと鳴り、赤い火花が跳ねた。
⸻
その隣では、雨が静かにコップを両手で抱えていた。
焼きあがった野菜を箸でつまみ、口に運ぶ。
その仕草は他の三人の賑やかさとは対照的に、落ち着いていて――どこか儀式のように丁寧だった。
「……甘い」
小さな声が、煙と熱気の中に落ちる。
「え?」
思わず聞き返すと、雨は視線を網に残したまま、短く答えた。
「ピーマン。苦いと思ってたけど……炭火で焼くと、甘い」
その一言に、喧騒がすっと止む。
天も、バニラも、そして結も、ふと手を止めて雨の横顔を見た。
「へぇ……」
結が小さく感心したように呟く。
その声に、他の二人も言葉を失い、ただ黙って火の揺らぎを見つめた。
雨の短い言葉は、不思議な静けさを呼び込んでいた。
煙の隙間からのぞく彼女の横顔は、熱を帯びながらもどこか澄んで見えて――。
賑やかなはずの焼肉の時間が、ほんのひととき、別の色を帯びていた。
――そして、次の瞬間。
「へっ……くしゅん!」
結が大きなくしゃみをした。手に持った皿が揺れ、焼きそばが少し零れ落ちる。
「だ、大丈夫?」
「だから言ったじゃない。花粉症よ」
雨が淡々と補足する。
「全然平気……ほんとに、平気だから」
そう言うものの、声は少し鼻にかかっている。
俺は皿をそっと置き、ポケットからハンカチを取り出した。差し出しながら声をかける。
「……無理するな。顔、赤いぞ」
結は一瞬だけ目を見開いたが、すぐに首を横に振る。
「……ありがとう。でも、みんな楽しんでるから。私まで止まってたら悪いし」
それは“気丈さ”というより、強がりに近かった。
俺は苦笑して、言葉を返す。
「悪くなんかない。鼻がつらいのに笑ってるほうが、見てるこっちが苦しいんだよ」
結の視線が、驚き混じりで俺に重なる。
その瞳の奥が、かすかに潤んだ。
――次の瞬間。
「へっ……くしゅんっ!」
大きなくしゃみとともに、鼻から透明なものがつっと垂れてしまう。
結は慌てて手で隠そうとしたが、間に合わなかった。
「っ……!」
耳まで赤くなり、俯く彼女。
「ち、違うの。風邪とかじゃなくて……その、花粉が……」
必死に言い訳しようとするが、声は震えていた。
俺は静かにハンカチを押し付けた。
「……だから言ったろ。無理するなって」
結は唇を噛み、視線を逸らす。
「……恥ずかしい……」
囁きのような声が、耳に落ちた。
「恥ずかしくなんかない。俺の前でくらい、強がらなくていい」
その言葉に、彼女の肩がわずかに震える。
ハンカチを受け取る手は小さく、でも確かに俺の手に触れていた。
「……じゃあ、ちょっとだけ借りるね」
「ちょっとじゃなくてもいい。落ち着くまで休め」
「……うん」
彼女は鼻をかみながら、小さな笑顔を見せた。
それは照れ隠しでもあり、救いを求めるサインでもあった。
俺はその横顔を見つめながら、心の中でひとつ決める。
――無理に笑わなくてもいい場所を、必ず作る。
彼女がアイドルでいる前に、一人の「女の子」としていられる場所を。
結はハンカチで鼻を押さえたまま、しばらく俯いていた。
やがて小さく「……いただきます」と呟き、冷めかけた焼きそばを一口運ぶ。
頬を赤くしたまま、何もなかったように箸を動かしている。
その姿に、周りも自然と会話を再開する。
天は「肉もう一枚ちょうだい!」と声を上げ、バニラは「焦がさないでよ」と文句を言う。
雨は黙って皿を差し出し、炭火の音だけが心地よく耳に残った。
――結の小さな弱さは、いつもの喧騒に紛れ込むように消えていった。
その時、スマホの履修アプリが赤く点滅した。出席率78%→74%。BBQの前に落とした三限の公欠未提出。
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