第12章 それぞれの日常と
午前。大学の講義室は、空調の風音とキーボードの小さな打鍵だけが漂っていた。
今日の心理学は「ストレス反応とコーピング」。スライドに出た単語――共感疲労、認知再評価、役割距離。
黒板に走るチョークの線を目で追いながら、俺は画面の隅で自分用のメモを増やしていく。
・配信前の緊張=ヤーキーズ・ドットソン(最適覚醒)
・愚痴吐露→“否定しない・要約して返す・次の行動を1個だけ”
・「心配」ではなく「観察」:勝手に救おうとしない
ノートの右端には、別のウィンドウ。
履修管理システム。単位の計算。来月のテスト期間と、事務所のシフト。
色分けされた時間割の空白を、指でなぞる。
水曜3限のゼミを外して、木曜の後半を空ける。これで配信の立ち会いに二枠出られる。
無理はしない。でも、逃げない。
“支える”は、いつだって段取りから始まる。
講義が終わって外に出ると、昼の風に新しいインクの匂いが混ざっていた。
スマホに通知が並ぶ。
紅結:〈レッスン入ります〉
天:〈荷物の積み下ろし手伝い中!〉
バニラ:〈新作0時解禁。サムネOK?〉
雨:〈13:30発声→15:00仮歌〉
(今日も、動いてる)
キャンパスの階段を降りながら、俺は事務所の鍵をポケットで確かめた。
⸻
午後。ダンススタジオの床は、鏡越しに光っていた。
メトロノームの電子音。1・2・3・4。
紅結はセンターの位置で、足運びを繰り返している。肩のラインをミリ単位で直し、鏡へ視線を送る角度を確かめる。
休憩の合間、彼女はスマホで先輩アイドルのMCだけを切り抜き再生し、メモ帳に箇条書きを増やした。
「起・承・転・結で喋ってる。『承』で全員の名前を入れて、『転』で一回いじる……」
独り言が、メトロノームの裏拍を塗る。
俺はスタンドの高さを彼女の目線に合わせ、三脚のネジを締める。
「ありがと、颯さん」
「配信、導入いつもより三秒短くしていい。最初の“掴み”を前に」
「うん。やってみる」
紅結は、呼吸を一つ深くした。
“センター”の背中はまだ細い。けれど、その線の中には折れないものが走り始めている。
⸻
廊下のむこう、器材庫前。
恋乃天が台車に手をかけ、ひょいひょいとロードケースを積んでいた。
軽口を叩きながらも、手つきは手慣れている。
「こっち軽いほう。バミも回収しとくね」
「助かる。腰、いわすなよ」
「平気平気。ダンスレッスンのアシスタントで鍛えてますので」
天はスタジオに戻ると、拍のカウントに合わせて先生の声を復唱し、後列の子の足並みを揃えていく。
“明るさ”だけで立っているんじゃない。声の入りと抜きがうまい。
その日の夜、彼女は雑談配信を短く開いた。
「きょうは筋肉休憩回〜。でもコメ欄は全力で甘やかして?」
画面越しの笑い。俺はモデの画面で荒らしを弾きながら、彼女の喉の疲労を拾わないようフェーダーを一目盛り落とした。
⸻
事務所の暗い一角。遮光カーテンの向こう。
推藤バニラの部屋は、リングの光が一点だけ灯る小さな宇宙だった。
机の上に新作ゲームのパッケージ。カウントダウンの数字がゼロに近い。
「新作は一番にやらないといけない縛り、発動中」
「了解。サムネ差し替え済み。タグ三つ固定」
「助かる。攻略は見ない。初見で“叫ぶ”“詰む”“回る”の三点セットで行きます」
バニラは背もたれからすっと体を起こした。
瞳にリングが丸く映り、指がコントローラを探る。
配信が始まると、彼女の声の高さが半音上がる。
“叫ぶ”“詰む”“回る”。
――そして、観察。
コメントの熱と速度を見ながら、笑いどころを一拍だけ遅らせる技が巧い。
“最速”であると同時に、“丁寧”でもあるのが、バニラの強さだ。
⸻
録音ブースでは、東村雨がラララで音階をなぞっていた。
ピアノの単音に合わせ、口の中の空気を薄く変える。
母音の明るさと暗さ。子音の角度。息の量。
ノートには数字と記号だけが並んでいる。
「――お疲れ様」
「……次、仮歌。二テイクで終わらせたい」
言葉は短い。
けれど、彼女は譜面を閉じると、別のテキストを開いた。
言語学の教科書。付箋が色で層になっている。
歌と勉強。どちらも“無駄”がない。
静かに積むことが、雨の“憧れ”の形だ。
⸻
夕方、事務所。
俺の机には、今日も雑務の山。
・請求書の突合
・備品の在庫入力
・ポスターの発送伝票
・スタジオの仮押さえ
・交通費精算
・差し入れのアレルギー表作り
キーボードに指を置き、ルーチンを速度で潰す。
途中、プリンターの紙が詰まり、輪ゴムが切れ、宅配の時間指定が被った。
“現場”に出ない時間だって、現実は重たい。
それでも、画面の向こうの“夜”へつながっていると思えば、指は止まらない。
「ただいま戻りましたー」
紅結が顔を出し、冷蔵庫から水を取り出す。
「先生に“体幹は午前中の座り方から”って怒られた」
「じゃあ明日から座り方、毎朝写真送れ」
「監視だ〜(でも、ありがと)」
天は台車を戻しながら、指のテーピングをほどく。
「筋肉痛くる前に配信行ってきます。タイトル『お風呂前十五分』」
「タイトル勝ち」
「お風呂は映しません!」
バニラはコントローラを抱えたまま、電池を替えに来た。
「今日のクリップ、三本だけ即出し。バズり筋、左」
「了解。明日まとめは縦型で」
「さすが。合格」
雨は荷物を抱えたまま、俺の机の真ん前で足を止めた。
「……メトロノーム貸して」
「ほい」
「ありがとう」
十秒で会話は終わる。それで充分だ。
⸻
そのとき。
社長室のドアが開いて、姉の声が微かに漏れた。
耳が“仕事の音域”に自動で焦点を合わせる。
「――うん、そっちの本番は夜だよね。大丈夫、こっちは合わせる」
「明日香、喉のコンディションは? 無理はしないで」
(明日香?)
受話器の向こうから差し込む、芯のある柔らかい声。
続けて、もうひとつの声が乗った。
透明で、凛としていて、少し低め。
「みどり、無茶させないで。あなたの“面倒見”は時々、強すぎるから」
「瑞稀までそんなこと言う? 私はただ――」
「ただ、昔と同じでしょ」
笑う声が混じる。
姉は小さく息を飲んで、すぐに普段の調子へ戻した。
「……相変わらずだね、二人とも。はいはい、わかりました。こっちは任せて。――Open Haloも、ちゃんと前に出すから」
通話が切れた。
ドアが開き、姉が出てくる。
俺は素通りするふりをして、机へ戻る。
心臓の鼓動だけが妙に大きい。
(社長……何者だよ)
昔は一緒に活動していたらしい。
あの二人と。“手の届かない人”たちと、同じステージに。
姉が、そこにいた。
“グリーンウィンド”の風は、思っていたより高い場所から吹いている。
⸻
夜。
各自の配信が終わって、事務所に静けさが戻る。
俺はスプレッドシートを開き、空白だった列を埋め始めた。
■三週間プラン(暫定)
1週目:配信導入の秒削り/クリップ即時回収の体制強化/お便り枠の整理
2週目:現地小ステージの下見/水族館の人流計測(週末/平日)/SNSの波形チェック
3週目:四人ユニゾン曲の“間”の再配置/雨の低音を活かすハーモニー図
+全員分:**メンタルの“逃げ道”**を先に作る(10分の無音休憩/「今日はダメ」の合図実装)
“作戦”は難しくなくていい。
できることを先に並べる。
そして、続けられるやり方にする。
ふと、机の端のファイルに目がいく。
姉から渡された“テスト”。最後の項目はまだ空白だ。
芸名/本名
ペン先が紙の白を引っ掻いた。
――何より信用されないと、名前も聞けない。
あの日決めたルールが、胸の真ん中に戻ってくる。
急がない。
でも、立ち止まらない。
“呼ばれる”まで、支えることで距離を縮める。
廊下の先、個別ブースから微かな鼻歌。
雨の声だ。
そのまま振り返らず、階段を降りた。
明日また、ここで風を整える。
名前の向こうへ、届くまで。
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