第11章 真面目な時間

 夜の事務所。

 自動ドアを抜けたところで、帰り支度を終えた天とすれ違った。


「あっ、お疲れさまです」


 肩にかけたバッグを直しながら、いつもの明るい笑顔を浮かべる。

 けれど、その目の奥にはわずかな翳りがあった。長い一日の疲れか、それとも言いかけて飲み込んだものか――判断はつかない。


「おう。……遅くまで大変だな」


 そう返すと、天は一瞬だけ視線を横に流し、廊下の奥を見やった。


「結ちゃん、まだ残ってるんですよね」


「……よく見てるな」


「当たり前だよ。センターだからって、全部抱え込むの、あの子の悪い癖ですもん」


 自分のことのように言い切る声に、俺は小さく息をついた。

「普通、そこまで気づけるもんじゃない」


 天は軽く肩をすくめ、笑みを残して答える。

「そしたら、素直に受け取っておくよ」


 軽く手を振って、彼女は夜の廊下に消えていった。

 残された静けさが、妙に濃い。

 ――まだ誰か残っている。そんな気配を感じながら、俺は鏡張りのスタジオの扉を押し開けた。


 窓の外はすでに暗く、鏡張りのスタジオだけが別の世界のように光を湛えていた。

 軽快な音楽がスピーカーから流れ、床を打つシューズの音がリズムを刻む。


 結はひとり、黙々と踊っていた。


 腕の角度も、指先の伸ばし方も、回転のタイミングも――一切の狂いがない。

 練習用のモニターに映る姿を見れば、ほとんど完璧に近い。

 誰が見ても「文句のないセンター」だと頷くだろう。


 ――けれど、彼女自身は首を横に振った。


「……まだ、違う」


 小さく洩らした声は、汗に濡れた空気の中に吸い込まれていく。

 息は乱れていない。ステップもぶれていない。

 それなのに、彼女の目の奥は焦りで固く結ばれ、見えない何かを追いかけていた。


 また最初から。

 音が切り替わり、同じ振りが繰り返される。

 完璧にしか見えないその動きが、彼女にとっては「まだ足りない」。

 その執念のような練習が、スタジオの空気を張りつめさせていた。



「まだやってたのか」


 扉を開けた俺の声が、スタジオの静寂を切った。

 結が振り向く。

 オレンジ色の髪が汗に貼り付き、額から伝った雫が頬をかすめて落ちていく。

 その滴を指で拭う仕草が、妙に大人びて見えて、けれどどこか心許なかった。


「颯さん。こんばんは。……音、うるさくなかったですか?」


「いや。静かすぎて、逆に怖いくらいだった」


 冗談めかしたつもりだった。

 けれど彼女は肩を小さくすくめただけで、笑顔の奥にほんのわずかな硬さを残したまま。

 作られたセンターの表情。ステージ上で身につけてしまった微笑み。


「もう、みんな帰ったろ?」


「はい。でも……私はもう少しだけ」


 躊躇のない返事。

 その言葉の背後に、引き際を忘れた焦りの色がにじんでいた。


「真面目だな」


「真面目じゃないと、誰も守れませんから」


 ぽつりと落とされた一言に、空気が重くなる。

 “センターだから”という言い訳を、あえて他の言葉にすり替えたような響き。

 俺は思わず眉をひそめた。


「誰も守れないって……結、お前、全部背負う気か?」


「背負うしかないんです。私がセンターだから。……私が崩れたら、全員崩れる」


 自分を鼓舞するような声音。

 だが指先は譜面を強く握りすぎて、紙が皺だらけになっていた。


「そんなことない。チームってのは、一人で回してるもんじゃない」


「でも……少なくとも、私はそう思えないんです。あの日からずっと」


 声が震えた。

 その「あの日」が何を意味するのか、彼女は言わなかった。

 だが、その影が彼女の背中にしっかり刻まれていることだけは伝わってくる。


 俺は迷いながらも一歩踏み出す。

 このまま放っておいたら、きっと彼女は壊れてしまう。


「結。真面目すぎて、自分を壊すなよ」


「……壊れてもいいんです。壊れるのが私ひとりで済むなら」


 まっすぐに返ってきた言葉。

 その強さに見せかけた声は、しかし限界に近い薄氷のように聞こえた。


「それじゃ意味ねぇよ。壊れたお前を、誰が守るんだ?」


「……」


 結は俯き、唇を噛んだ。

 長いまつ毛の影が床に落ち、その影ごと小刻みに震えている。

 言葉を探そうとする沈黙が、逆に彼女の弱さを浮かび上がらせていた。


「颯さんは……ずるいですね」


「なんでだ」


「そういうこと、言わないでください。……弱音を吐きたくなるから」


 小さな声だった。

 拒絶の響きを纏っているのに、どこか縋るようでもあった。


 俺は口元に苦笑を浮かべる。

 強がりを壊すほどの力は持てない。けれど、寄り添うことならできる。


「いいじゃないか。たまには弱音も吐けよ。……俺しか聞いてない」


「……ほんと、変わってますね」


 結はようやく、ほんの少し笑った。

 センターとして貼り付けた笑顔ではなく、素の温度が混じった表情だった。

 その笑みが見られただけで、今夜ここに立ち寄った意味があるように思えた。



「そういえば、さっき配信の準備もしてただろ」


「……はい。明日の配信で、歌を増やそうと思って」


「大変だな」


「大変じゃないです。……むしろ、大変じゃないと、不安なんです」


 彼女はノートを取り出した。

 細かい文字でびっしりと埋まったページ。

 歌う曲のリスト、ファンからのコメントへの返答パターン、挨拶のバリエーション――。

 一つひとつ、すべて自分の手で積み上げた設計図。


「……これ、全部自分で考えてるのか」


「はい。完璧に準備しておけば、失敗しないから」


 言い切ったその唇が、一瞬だけ震えた。

 すぐに笑顔を貼り直す。

 けれど、その奥に潜む小さな揺らぎ――誰にも見せないはずの脆さが、確かに覗いた。



この編集では、

• 行間を増やして「練習の空気の張りつめ」「笑顔の硬さ」「言葉の震え」をじっくり見せる

• 「センターとしての責任」を淡白にせず、感情と緊迫を帯びさせる


ようにしました。



「逆に、準備しすぎて不安になってるように見えるけどな」


 思わず本音が漏れた。

 結は目を丸くし、驚いたように俺を見た。


 ……そして、少しだけ目を逸らしながら笑った。


「……颯さんって、やっぱり時々ずるいです」


 “見抜かれてしまった”という戸惑いと、“少し楽になった”という安堵が混ざった笑み。

 それは、完璧な紅結の顔からはみ出た、小さな「隙」だった。



 窓の外には、街の灯りが滲んでいた。

 鏡に映る紅結は、センターとして完璧であろうとし続ける。

 だが、その内側には、まだ不安を抱えた少女がいる。


 ――その存在を、俺だけは確かに見ていた。


 スタジオに響くのは、エアコンの低い音と時計の針の音だけ。

 結はノートを閉じ、膝を抱えて座り込んでいた。鏡に映るのは“センターとして完璧であろうとする姿”ではなく、肩を落とした一人の少女。


「……いつも、こんなに遅くまでやってるのか?」


 問いかけに、結は小さく頷く。

「気づけば、です。……誰にも言ってないんですけど」


 声は落ち着いていたが、吐息の端に疲れが混じっていた。



「天は体力があるし、バニラは企画力がある。雨は……歌がすごく上手で」


 結は視線を落としながら仲間の名前を挙げる。

 その指先はノートの端をなぞり、僅かに震えていた。


「私は……真面目さでしか勝てないんです。だから止まったら、きっと置いていかれる」


 言葉に自嘲はなく、ただ事実を並べるような響きだった。

 だからこそ重く感じられた。



「……置いていかれるって、誰に?」


 俺が口を挟むと、結ははっと顔を上げた。

 一瞬、瞳が揺れた気がしたが、すぐに笑顔を作る。


「冗談ですよ。気にしないでください」


 軽い調子に戻そうとしたその笑顔は、しかしどこかぎこちなかった。



「……結」


 俺は一拍置いて、ゆっくりと呼んだ。

 何度も口にしてきたはずの名前。けれど、今夜は違う響きで伝えようと、意識的に声を落とす。


 結はわずかに目を丸くした。呼び慣れたはずの音に、不意を突かれたように。


「完璧じゃなくてもいい。お前が立ってるだけで、支えられるやつはいるんだ」


 静かに告げる。

 結は息を呑み、すぐに視線を逸らした。頬がわずかに赤く染まっている。


「……そう言ってもらえるの、嬉しいです」


 その笑みは“仮面の笑顔”からはみ出した、小さな素顔のように見えた。



 外に出ると、小雨が降っていた。

 傘を差しながら振り返った結は、少し照れたように言う。


「颯さん……今日のこと、秘密にしてくださいね」


「もちろん」


「……頼りにしてます」


 街灯の下、雨粒に濡れた瞳がわずかに光を宿す。

 雨音に紛れて消えたその笑みは、センターではなく、ただ一人の少女のものだった。

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