第10章 仮面の笑顔
夜の事務所の廊下は、もうほとんど人影が消えていた。蛍光灯の明かりが淡く床を照らし、ガラス越しに見える配信ブースだけが別世界のように煌めいている。向こうから聞こえてくる声は、画面の向こう側とこっち側で表情がまったく違うことを教えてくれる
――今日も「推藤バニラの時間だよっ☆」と、いつものハイテンションが鳴り渡っている。
俺はつい足を止め、ガラスに顔を近づけた。モニターには彼女が映っていて、リボンをきゅっと結った白髪がライトに反射する。コメントが早い速さで流れていく。可愛い、尊い、推されてる――それが今の彼女に必要な弾丸のようだ。
(……徹底してるな)
その“徹底”の裏側が気になって、俺はブースのドアを押した。赤いランプが消えると、瞬間に空気が変わる。バニラはカメラの前で放っていた光をさっと畳んで、椅子に深く沈んだ。
「……ふぅ。疲れた」
声は、配信のときの明るさよりずっと静かで、その分だけ生々しい。胸の奥に、なにか沈むものが落ちるのを感じた。彼女は肩を落とし、腕をだらりと垂らしている。
「お疲れ。相変わらず人気だな」
俺の声にハッと振り向くと、バニラの頬が少し赤くなった。しかしすぐに彼女は仕草を切り替え、胸を張るように笑った。
「うわっ、覗いてたの? 颯、ほんと暇人だね〜」
その嘘くさい明るさには、確信的な作為が混じっている。けれど、目の端にほんの一瞬、疲れが残るのを俺は見逃さない。
「まあ当然でしょ。私は“推藤バニラ”だからね。推されるために生まれてきた存在」
「本当に、そんなふうに思ってるのか?」
少し無骨に聞くと、バニラは一拍おいてから眉を上げる。
「思ってないわけじゃない。嘘じゃないし、本当でもある」
「それって、どっちなんだよ」
彼女は笑って肩を竦めるが、声に含まれる揺らぎは消えない。
「だって、みんな“バニラ”しか見てないんだもん。画面の向こうで、私が“バニラ”だから推してくれる。――それが仕事だし、嬉しいし、怖いのも本当」
「怖い、か」
「うん。だって“本当の私”が誰も見てくれないような気がして。配信を切った瞬間に、私って消えちゃいそうで」
彼女の指がコントローラの縁をぎゅっと握る。爪先に力がこもり、小さな白い線が入る。喋り方は軽いけど、その目は怒っているわけでもなく、ただ澄んだ不安を宿していた。
「配信でやってる顔は“商品”だよね。私もそれで生活してるし、ファンも嬉しい。けど、商品であることと、生きてることの線引きが難しいんだ」
「だからって、全部嘘にしてるわけじゃないだろ」
「もちろん。本気にもしてる。でも、私が可愛いって言われて終わるなら、きっとどこか薄っぺらいんだ。そう思うと、怖くなる」
彼女はぐっと息を吐いた。目尻がぴくりと動く。笑いを作るのは簡単だが、剥がれた裏側をどう扱うかはもっと難しい。俺は黙って頷いた。
「でも、さっきの笑顔は嘘じゃなかったよな」
一言でいい。そう言いたくて、俺は口を開いた。バニラの肩が小さく震えた。
「……っ」
「見てた。あの動き、あの間、視聴者を引くために作ってるのは間違いない。でも、笑顔の端に本当に嬉しいと思ってる瞬間があった。そこは嘘じゃない」
「そ、そんなこと言われると照れるじゃん……」
彼女の顔が一瞬、少女に戻る。だが、すぐにふっと息を吐き、目を伏せる。
「勘違いしないで。裏を知ってる私だけ特別扱いしてよ、なんて思わないでね」
「特別扱いなんてするつもりない。ただ、配信じゃない時の君も、ここにいるってことを忘れないってだけだ」
俺はわざと芸名で呼び続ける。名前で線を引きながら、言葉の温度を抑える。彼女の反応は微妙に混ざった顔だった。驚き、安堵、そして少しの照れ。
「……あんた、ほんと変わってる」
唇が緩んだ。バニラは再びカメラの前に向き直り、ルーティンを整え始める。赤いランプが灯り、彼女は瞬時に“推藤バニラ”へと戻る。画面の前の笑顔は滞りなくファンに届いていく。だが、俺はその背中に戻るまでの微かな崩れを見逃さなかった。
深夜、事務所は静けさを取り戻す。ブースの外に灯る非常灯の光が、ガラスに反射して淡く揺れる。だが中で、彼女はモニターに噛りついてコントローラを握り締めていた。今日は配信ではない。誰も見ていない“練習”の時間だ。
画面に「You Lose」の文字が赤く点滅し、バニラは額に手を当てる。深い吐息が漏れた。
「……最悪。こんなの、配信で見せられない」
「まだやってたのか」
俺がドアをノックすると、彼女は一瞬だけ顔を顰めてから眉を上げる。
「っ……また覗き? 颯ってほんと暇人だね」
その口ぶりは強がりだけど、肩で荒い呼吸をしているのは明らかだ。俺はテーブルに常温のペットボトルを置いた。
「水分とれ。喉も大事だぞ」
「……ありがと」
飲む仕草の隙に、彼女の表情が一瞬崩れた。今だけは“仮面”が緩んで、自分がただの疲れた女の子であることを見せる。俺はその瞬間を、そっと抱き留めるように見ていた。
「ねえ、颯」
「ん?」
「私ね、“バニラ”でいるときは無敵に近い気がする。可愛いって言われて、推されて……全部手に入る」
声が震えている。胸の奥に引っ込めていたものを、彼女はどうにか取り出そうとしている。バニラの指先が、コントローラのボタンに食い込む。
「でも、本当の私は、誰も見てない。誰も覚えてない。それが一番怖い」
「覚えてるよ。俺は覚えてる」
言葉は短く、だが真っ直ぐ。芸名で呼び続けることは、そのまま“覚えている”確認でもある。バニラは一瞬目を見開く。驚きと、そして小さな救いの色。
「……あんた、ほんと変わってる」
くすりと笑った。その笑いは今までのどの笑いよりも柔らかく、夜の静けさに溶けていく。
「いいか。配信が終わって灯りが落ちても、君はここにいる。スクリーンの向こうとここが違うなら、その差分を埋めるのが俺の仕事だと思えばいい」
「そんな大層な」
「いや、別に大層じゃない。ただ、誰かが本当の君をちゃんと見てるってことが、君の安心に繋がるなら、それを続けるだけだ」
バニラはコントローラをそっと置き、顔を上げる。目が潤んでいるのに、笑いを浮かべている。たとえそれが少しの涙混じりでも、その笑顔は本物の温度を持っていた。
「……ありがとう、颯」
「いいって」
彼女は深呼吸をし、立ち上がって身なりを直す。夜の事務所の空気は冷たいが、二人の間には微かな温度が残る。仮面を被り続ける彼女の強さと、仮面の奥を覗き込む俺の慎ましさが、静かに交差した瞬間だった。
ブースを出ると、夜風が頬を撫でた。推藤バニラの仮面はいつでも輝いていられるわけじゃない。それでも、誰かがその裏側を覚えている――それは、少しだけ彼女を軽くする。
俺は振り返らずに歩き出す。背中には、今夜見た柔らかな笑顔が、静かに残っていた。
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