第9章 崩れる声
夜の事務所。
エントランスを抜けたところで、帰り支度を終えた天とすれ違った。肩からバッグを提げ、髪を耳にかけながら、少し疲れのにじむ笑顔を浮かべている。
「颯さん、お疲れさまです」
「おう。……こんな時間までか」
「うん。雨ちゃん、今日は外仕事だったから、ずっと練習してたんですよ。すごいなって思うくらい、休まずに」
何気ない口調の奥に、尊敬と、それを上回る心配が同居していた。
仲間を気遣う視線は、きっと誰よりも真っ直ぐだ。
「……ちゃんと見てるんだな」
「当たり前だよ。仲間だから」
天は小さく笑い、軽く手を振って夜の廊下に消えていった。
彼女の背中を見送りながら、俺の胸にも小さな灯がともる。誰かを思いやれる視線――それを持っているからこそ、彼女たちはチームでいられるのだろう。
共有スペースの照明はすでに落とされ、廊下に並ぶガラス窓だけが街の灯を映している。
俺はノートPCを抱え、講義資料を整理しながらスタジオフロアへ向かった。翌週に迫る試験の準備――心理学概論、認知行動療法、社会適応理論……覚えるべき言葉は山ほどある。
(授業とバイト、両方やろうとすると本当に時間が足りない……。けど、あの子たちの顔を思い浮かべると、どれも投げ出せなくなるんだよな)
思考を整理するように階段を降りたとき、奥のスタジオからかすかな歌声が流れてきた。
――透き通った高音。
だが、次に続くはずの低音は掠れて揺れ、音程が一歩遅れて崩れていく。
(……雨?)
収録室の扉は半開きで、赤いランプがちらちらと瞬いていた。
中を覗くと、青髪を揺らした東村雨がマイクの前に立ち、譜面を睨んでいる。
額には薄く汗が滲み、喉を押さえながら何度も同じフレーズを繰り返していた。
声は限界を越え、ノイズを含んで割れる。それでも彼女は止めない。
「……違う。ここは……こうじゃない」
ひりつく声。
録音機材は切られぬまま赤く点滅し、失敗の音をすべて記録していく。
雨は小さく息を呑み、拳を固く握った。その横顔はいつもの冷静さとはかけ離れ、必死に何かへ縋ろうとする弱さに満ちていた。
気づけば、喉から声が漏れていた。
「……無理するな。声が潰れる」
その一言に、雨の肩がびくりと震える。
振り返った瞳が、大きく見開かれて俺を射抜いた。驚きと、警戒と――そして、ほんの一瞬に滲んだ怯え。
だが次の瞬間、その光は険しさに塗り替えられる。
「……出てって。今のは聞かなかったことにして」
吐き出された声は氷のように冷たい。
けれど、耳を澄ませば震えが混じっていた。
「いや、聞いた。何度も繰り返して、喉を痛めてるだろ」
静かに返すと、雨はマイクスタンドを握りしめる手にさらに力を込めた。
白くなった指の節。うつむいた肩は小刻みに揺れて、張り詰めた糸が切れる寸前のようだった。
「だからこそ……見せたくなかったの」
彼女の声は、懇願と拒絶の間を漂っていた。
“完璧でいなければならない”と自分を追い込む鎖の音が、確かにそこに響いていた。
「“雨”は完璧でなきゃいけない。外の仕事を任されてるのに……音を外したら全部終わる。私は……“本当の私”じゃないから」
それは告白ではなく、宣告のようだった。
仮面を被り続けると決めた少女の、逃げ場のない呟き。
胸がざわついた。
彼女は自分を護るために作った「雨」という存在に、逆に縛られている。
「失敗を見せるのが怖いんだな」
「当たり前でしょ」
食い気味に返された声は強気を装っている。
だが、瞳の奥では炎のような焦燥が揺れていた。
「でも、人は弱さを見せ合ったときに、初めて信頼できるもんだ」
自分でも驚くほど自然に出た言葉。教科書の受け売りにすぎないのに、今だけは違った。
本気でそう信じたいと願っていた。
雨は目を細め、唇を強く噛んだ。
その瞳には、拒絶の刃と、揺れる迷いの両方が宿っていた。
「……知ったようなことを」
吐き捨てた声にはまだ鋭さが残る。
けれど、その刃はさっきよりも鈍く、心の奥で揺らぎ始めていた。
俺はそっと一歩近づき、録音機材の赤いボタンを押した。
ランプが消え、部屋の中の緊張が少し緩む。
「これで“失敗”は残らない。誰も聞かない。……だから安心しろ」
肩がわずかに下がる。そのわずかな沈降こそ、彼女の仮面に入ったひびの証だった。
静まり返ったスタジオ。
雨は両手で髪をかき上げると、ゆっくり椅子に腰を下ろした。
マイク越しではなく、素のままの吐息が初めて俺の耳に届いた。
それはかすかな音だった。
けれど、ずっと“冷静な雨”を演じ続けてきた彼女が、ようやく息をついた証――ひどく貴重な、たった一度の音に思えた。
「……どうして、あんたはここにいるの」
雨の声は、淡々としていた。冷たく切り捨てるでもなく、温度を含むでもなく、ただ余計な距離を置こうとするような調子。
視線は譜面の上に固定されたまま。わざとこちらを見ないようにしているのがわかった。
「勉強。……ってのは建前だな。気配がして気になったんだ」
言いながら、自分でも理由を探すような声になる。
雨の肩がかすかに揺れたが、こちらを振り返ることはなかった。
「気にしなくていいのに」
小さな吐息に乗せて、壁を作る。
けれど、その言葉の端には疲労の影がにじんでいた。
「そう言われても、放っとけなかった」
「……優しいふり?」
短い問いかけ。挑むようにも聞こえたが、むしろ自分に突き刺しているような響きだった。
「ふりじゃない。気になったから来ただけだ」
返す声は、少しだけ低くなった。
沈黙が一瞬挟まる。その間に、譜面の端を握る雨の指先が白くなっていく。
机の上には、何度も修正された痕跡。紙は折れ目と書き直しの線で波打ち、指で触れれば崩れそうなくらい弱っていた。
その紙に映っていたのは、彼女の焦りそのものだった。
「……必死だな」
言葉にした瞬間、雨のまつ毛がわずかに震えた。
「必死じゃなきゃ、“雨”は保てない」
ぽつりと落ちる声。
自分自身を縛る呪文のように、繰り返し心に刻んでいる響きだった。
「保つって、何を」
問い返すと、雨は小さく首を振った。
「……外で任されてる仕事。冷静で、完璧な“雨”」
そこで言葉が止まる。
口を閉じた唇が強張り、肩先が小さく震える。言えない続きを必死に飲み込もうとしている。
「でもさ、俺は――歌を外した雨よりも、今こうして悩んでる雨のほうが、安心できる」
静かに告げる。
しかし、その一言に雨の瞳がわずかに揺れ、息を詰まらせた。
「……そんなこと、言わないで」
声は低く、かすかに震えていた。拒絶というより、受け止めきれない思いを押し返しているようだった。
「ごめん。でも、本当にそう思ったんだ」
間を空けて、そっと言葉を重ねる。
けれど彼女は視線を落とし、頬にかかる青い髪で表情を隠した。
「……あなたはそう思うのかもしれない。でも、私は……違う」
唇から漏れたのは、かすかな囁き。
否定の言葉ではあるのに、強くはなかった。ただ、自分の形を必死に守ろうとしている響きだった。
俺は机の横に回り込み、赤く光っていた録音ボタンにそっと触れる。
小さな「ピッ」という音とともに、赤い光が消えた。
「これで失敗は残らない。ここには俺しかいない」
雨の肩がわずかに揺れ、呼吸が少し深くなる。
「……そうやって簡単に言うの、ずるいよ」
吐き出すような声。強さはなく、ただ自分を守ろうとするための最後の一線。
やがて、ヘッドホンを外した彼女は顔を伏せ、青い髪が頬に滑り落ちる。
その隙間からこぼれた声は、震えてはいたが確かに彼女自身のものだった。
「……ありがと」
静かな一言が落ちる。
それは拒絶と安堵のあいだに漂い、仮面の裏に隠れていた本音の欠片だった。
⸻
机の上に残された録音データは削除した。
証拠なんて残す必要はない。
彼女が仮面の奥で揺れた、その一瞬の真実を、外の誰にも触れさせたくなかったから。
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