第8章 SNSの影


 水族館での仕事から一週間が経った。

 配布したチラシの残りはすべて回収され、着ぐるみの汗もようやく洗濯から戻ってきた。

 だが俺の胸には、達成感よりも違和感が残っていた。


(あれだけ頑張っても、誰もステージに立てなかった。客の前で歌ったわけでもない。ただビラを配って、子どもに風船を渡しただけ。あれで“アイドル活動”と呼べるのか……?)


 そんな思考がまとわりついていた矢先、スマホの通知音が連続で鳴った。

 グループの共有チャット。開いてみると、見慣れないリンクが貼られている。


【まとめサイト】「新進気鋭アイドル『Open Halo』、水族館で“営業バイト”?」

「アイドルなのにチラシ配りだけ?」

「ファン騙してない?」


 目を走らせるだけで、胃の奥が重くなる。

 コメント欄にはさらに辛辣な言葉が並んでいた。


「バイトかよ」

「結局、地下アイドル崩れでしょ」

「所詮踏み台ぐらいにしか思ってないんじゃない」


 拳が無意識に固く握られる。

 俺が胸の中で感じていた違和感を、見知らぬ誰かが無責任に言葉にして、彼女たちを傷つけようとしている。


(こういうのが一番タチが悪い……。心理学でも“否定的な言葉は肯定的な言葉より二倍も記憶に残る”って習ったっけな。真に受けるなって言っても、届くわけがないんだ)


 ため息を吐きかけたそのとき、扉の向こうから足音がした。

 赤と黄色のヘアアクセを揺らしながら、恋乃天が入ってきた。


「……あ」


 目が合った。

 彼女はいつもの明るさで手を振る。だが、瞳の奥に疲れが滲んでいた。


「颯くんも見た? あの記事」


「……ああ」


「やっぱり。もうファンの人からもDMで送られてきちゃって。『がっかりした』とか『応援する気なくなった』とか……」


 声は笑っているのに、手元で握りしめるスマホが小刻みに震えている。

 強がっているのは明らかだった。


「気にするな、なんて言っても無理だろうな」


「うん。だって……“天”はみんなの理想でいなきゃいけないから」


 軽く言ったその一言に、俺は返す言葉を失った。

 本名を伏せ、芸名で生きるということ。それはこういう痛みにも耐えるということなのか。


「俺が代わりに返信してやれたらいいんだけどな。心理学的には――」


 そこまで言った瞬間、彼女は笑って遮った。


「大丈夫! 颯くんにまで心配かけたくないから」


 その笑顔は、作り物のように完璧で。

 だが目の縁は赤く滲み、隠しきれない感情がにじみ出ていた。


(“理想の恋”を演じ続けるために、心の痛みまで飲み込んでる……。このままじゃ、いつか折れる)


 俺は一歩、踏み込もうとした。

 だが、口を開きかけたところで――


「ごめん、配信の準備あるから!」


 天は荷物を抱えて立ち上がり、逃げるように扉を開けた。

 残されたのは、机の上に置かれたスマホの画面。そこにはまだ、冷たいコメントが流れ続けていた。


 扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。

 残された俺はしばらく机に突っ伏し、スマホに流れる文字列を眺め続けていた。


(……最悪だな。外から見ればただの失笑ネタ。だが、彼女たちにとっては心を削る現実)


 人間の記憶は、ポジティブな出来事よりもネガティブな出来事を長く保持する。

 脳の仕組みとして“生存のために危険信号を優先する”のだと講義で聞いた。

 だから、いくらファンの好意的なコメントが百件あっても、悪意ある一件が脳裏に焼きつく。

 天が笑顔で「大丈夫」と言ったのも、その裏返しにすぎない。


 俺は拳を握り、立ち上がった。

 そして、配信ルームの前に足を運んだ。ドアの向こうから声が漏れてくる。


「こんばんは〜! 恋乃天です! 今日は水族館のお仕事の裏話を、少しだけお話ししようと思いまーす!」


 明るく響くトーン。

 ファンからのコメントが流れ、軽快に返す声。

 けれど俺にはわかる。そこにはさっきまでの震えが隠されていた。


「えへへ、皆も“天”と一緒に海の生き物見てみたい? ……うん、だよね! イルカと泳ぐの、私も夢なの!」


 明るい声色の合間に、ほんの一瞬だけ息が詰まる。

 マイクに入らない程度の小さな沈黙。

 観客は気づかない。でも俺には聞こえる。

 “理想の恋”を演じる彼女の呼吸の乱れが。


(……やめろ。そんなに無理して笑うな)


 胸がざわついた。ドアを開けて飛び込んでしまいたい衝動に駆られる。

 だが、それは彼女の「アイドルとしての舞台」を壊す行為でもある。

 俺はドアノブにかけた手を、ゆっくりと下ろした。



配信が終わったのは夜十時を過ぎてからだった。照明が落ち、機材のLEDがぽつりぽつりと息をしているスタジオの片隅で、彼女たちはそれぞれに汗を拭き、衣装を崩し始めていた。笑い声も漏れるが、その笑いの裏側には疲労の匂いが混じっている。


颯はモニターのログをぼんやり眺めていた。コメント欄の流速、同接の山、ファンの書き込み。数字は誠実に、今日の頑張りを証明している。でもそれだけでは掬えないものが胸の奥に残っている――結のあの瞬間、天のあの一瞬の翳り。


ふと、部屋のドアが開いて、恋乃天が飛び出してきた。髪は乱れ、顔はまだ赤い。配信直後の高揚が体に残っているらしく、手を振りながら近づいてくる。


「見てた? 今日の配信。コメント欄、盛り上がってたでしょ? ねぇ、見てたよね?」

彼女の声は弾んでいる。だが、その弾み方にわずかな硬さがある。笑顔がいつもより鋭く見える気がした。


颯は一度大きく息を吐いてから、返す。言葉は短く、でも正直だ。

「……ああ。盛り上がってたな。コメント、ずっと流れてた」


天は嬉しそうに目を輝かせる。しかしその目がすぐにどこか遠くを探すように細まり、声が急に小さくなる。


「ねぇ、颯くん。もしさ、私が“天”じゃなくなったら……それでも応援してくれる?」


その問いを耳にした瞬間、颯の胸の中で何かがきゅっと縮んだ。問いの端に潜む脆さが、夜の静けさを一層深くする。


――「天が“天”である」という仮面。ファンが求める光。その裏側で、彼女はどれほど自分を削っているのか。


颯は少し間を置いてから、ゆっくりと答えた。言葉を選ぶように、丁寧に――


「もちろんだよ。お前が何をしても、ここにいる。配信の“天”だけじゃなくて、天自身として、見てるよ」


天の口元に、一瞬だけ驚きの色が広がる。次の瞬間、彼女はその驚きをすぐに笑顔で覆い隠した。だが笑顔の後ろで、頬にほんの少し涙が浮いているのを颯は見逃さない。


「そう言ってくれると、嬉しいけど……」

彼女は視線を落とし、爪先で床を小さく蹴る。照れ隠しの軽口を放つが、声の震えは隠せない。


「でも、答えは急がなくていい。まだ、自分でも整理がつかないことが多いから」

颯は続ける。「無理に“天”でいなくていい。まずは、お前が苦しくないことが大事だ」


天はそれを聞いて、おどけ半分に肩をすくめる。


「ふふっ、ありがと。颯くんって、たまに妙に真面目だよね。ちょっと堅いというか」

そう言いながらも、彼女は颯の目をしっかり覗き込む。夜の街灯が二人の影を長く伸ばし、彼女の瞳が微かに揺れる。


「なにそれ、褒め言葉? 照れるなー」

天は、笑い声を作る。だがその笑いの合間に、素の声が零れる。


「ねぇ、颯くん。いつも――よく見てくれてありがとう。私、たまに誰も気づいてくれないって思うときがあるから」


颯はその言葉を胸に受け止める。誰も気づかない――という孤独。それを自分が少しでも和らげられるなら、やるべきことは多いが、迷いは薄れる。彼の返事は簡潔だが、揺るがない。


「当たり前だ。お前のこと、ちゃんと見てるよ。ここでやるって決めたんだから、俺は最後まで見る」


天はゆっくりと息を吐き、自然に笑った。笑いに本物の安堵が混ざる。


「じゃあ、これからもよろしくね。私、頑張るから」

彼女の声は、決意のこもった柔らかさを帯びていた。そこには、誰かに認められたときにだけ出る強さが確かにある。


颯はその背中を見送りながら、内側で何かを固める。言葉にしなくてもいい決意が、胸の奥で結晶化していく。彼女たちを守る──という責任は、もう他人事ではない。


天が去った後、颯はモニターに目を戻す。流れるログ、弾かれるコメント、図らずとも積み上がった数字の確かさ。だが今見ているのは数字だけではない。さっきの問いかけと答えのやり取りが、夜の事務所に静かに残響している。


(――お前が“天”であることも、天としてでないことも、全部、俺は見てる)


短い余韻が、静かに部屋を満たす。夜風はまだ冷たいが、颯の胸は少しだけ温かかった。彼はノートを取り出し、明日のスケジュールに小さなメモを残す。――「天、様子確認。無理させない」。その手書きの字は、これから続く日々の、小さな誓いの始まりだった。

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