第7章 パラダイスオーシャンにて
「喜べ、水族館で仕事だ」
姉さんが事務所に顔を出すなり、開口一番そう告げた瞬間、部屋の空気が一変した。
「えっ、あそこって……この前CMで見た水族館だよね?」
結が目を丸くし、机に置いたペンを転がしてしまう。
「マジで? 本当にあのパラダイスオーシャン?」
天は信じられないように声を弾ませ、すぐにスマホを取り出して検索し始めた。指が画面を連打する音が場の熱をさらに高める。
「ついに大型案件ってわけね」
バニラはにやにやしながら腕を組んだ。けれど、口調の軽さの奥にわずかな緊張が滲む。視線はすぐにカレンダーに走り、日程を計算しているようだった。
「でも……随分とおかしなタイミングじゃない?」
雨がぽつりと呟く。冷静な声が場の浮かれた熱気をひと呼吸だけ冷ました。
「えー、いいじゃん! 出られるならなんでもいいよ!」
天はそんな空気を振り払うように両手を広げた。口元は笑っているけれど、声の端に「早く立ちたい」という焦りの熱も混じっている。
「しかも有名なパラダイスオーシャンでしょ? イルカショーのステージ、雑誌でも何度も見たことある」
結はスケジュール帳をめくりながらも、ページを押さえる指先が小さく震えていた。嬉しさと緊張が入り混じるその声は、普段の落ち着きとは違う揺れを帯びていた。
「この辺じゃ、デートスポットとしても人気よね。休日は混雑するって評判だし……」
バニラが肩をすくめ、現実的な数字を頭に思い浮かべるように言葉を続ける。
「映えるステージなら、SNSでも拡散される可能性は高い。これは……チャンスかも」
「Vtuberとのコラボや、アニメのロケ地にも使われてたところだよ!」
天が勢いよく続けた。目は輝き、未来を描くように遠くを見ている。
「……これは、もしかしたら私たちにも流れが来てるのかもしれない!」
机を囲んだ四人は一気に沸き立った。
結はペンを走らせて細かい段取りを書き込み、天はスマホで「パラダイスオーシャン」のトレンドを追いながらファンの反応を確認している。バニラは「現地映えするコーデ考えなきゃ」とメモを取り始め、雨は何も言わずにカレンダーを閉じ、それでも珍しく視線だけは僅かに光っていた。
「……でも、やっぱり気になる」
雨が小さく続ける。
「普通なら、もっと早く告知するはず。観客を集めるイベントなのに、直前まで内緒って……」
「そ、そうかもしれないけど……」
結は苦笑しつつ、視線を手帳に落とした。
「でも、せっかく来たチャンスだよ。逃したら、次はあるのかな」
「そうそう! 疑ってばっかじゃもったいないよ!」
天が即座に割り込み、両手を振った。
「せっかくの大舞台なんだから、楽しむこと考えよ!」
「楽しむのは大事。でも、舞台裏に仕掛けがあってもおかしくない」
バニラが唇を尖らせながら反論する。
「人気施設で、駆け出しの私たちに……? どう考えても、不自然でしょ」
言葉が交錯し、空気が揺れる。
それでも、それぞれの目には“ステージに立ちたい”という光が消えずに残っていた。
俺は一歩引いた場所から、その光景を見つめていた。
姉さん――社長・風見翠がわざわざ持ってきた仕事。
普通なら、何も考えずに喜んで飛びつくべき案件。
だが胸の奥では、ざわつきが止まらなかった。
(……うまい話には裏がある。けど、あいつらの笑顔を曇らせるのも嫌だ)
浮かれた声の渦の中で、俺だけは深く頭を抱えていた。
⸻
当日 ― 水族館会場
会場入りして、答えがわかった。
「……そういうことか」
俺たちに渡されたのは、分厚いチラシの束と、でかすぎるマスコットスーツ。水族館のイルカを模した着ぐるみで、青と白の配色に、目がやたらキラキラしている。
「な、なにこれ……?」
結が絶句し、手にしたチラシをぱらぱらとめくる。どこにも「ステージ」や「出演」といった文字は見当たらない。
「ちょっと待って! ライブじゃないの!? イルカさんとコラボするって思ってたのに!」
天が声を張り上げ、スマホを取り出して再確認するように画面をスクロールする。
「イルカショーのステージで踊れるとか、雑誌で見た記事ぜんぶ信じてたのに……」
結の声はか細く震えていた。
「くっ、最高……!」
その隣で、バニラは腹を抱えて笑いを堪えている。
「いや、ごめん、無理……! だって“着ぐるみとビラ配り”とか、想像の斜め上すぎるでしょ!」
「……」
雨は口を開かない。けれど眉がわずかに下がり、視線を落としたまま。ほんの一瞬、その肩が小さく揺れた。
「そんなのないわよ。現実を見なさい」
姉さん――社長・風見翠は淡々と言い放った。
空気が一気にしぼむ。
結は唇をかみ、天は「ちょっと待って、それは聞いてない!」と食い下がる。
「ってか、なんで衣装4着と着ぐるみ1つなんだ? やるのは4人だろ?」
俺は思わず声を上げた。
すると、受付の担当者が苦笑いを浮かべて答える。
「スタッフは5人と社長さんから聞いてます。女の子たちは入り口でビラ配り。男の子には風船渡し役を……その、着ぐるみを着てお願いしたいとのことです」
「……は? 俺もやんのかよ!?」
着ぐるみを突きつけられた瞬間、反射的に叫んでいた。
視界の端で、四人が一斉に俺を指差す。――そして次の瞬間。
「ぎゃははっ! マジで似合いそう! 逃げる気だったでしょ!」
天はお腹を抱え、声を裏返しながら笑い転げる。
「颯君、残念だったね。運命ってやつだよ」
結は笑いを必死で堪えながら、目元を和らげた。普段の真面目な表情との落差が余計に腹立つ。
「……仕方ない。どうせやるしかないんだから」
雨は苦笑を滲ませながら、わずかに肩をすくめた。声の調子は低いが、確かに諦めとほんの少しの同情が混じっている。
「ほらほら、時間がないわ。さっさと着替えて」
バニラは完全に観察者の顔で、腕を組んだままにやついている。
「いやいやいや! 俺だって一応マネージャーだぞ!? なんで一人だけ着ぐるみなんだ!」
必死に抵抗しても、誰も取り合わない。
「大丈夫大丈夫、子どもは絶対喜ぶって!」
天はスマホを構えてカメラを向ける。
「ほら、“イルカ颯”の初お披露目、配信にあげよ!」
「やめろぉぉぉ!!」
「SNSに上げたら絶対バズるわ」
バニラはもうニヤニヤが止まらない。
「……子どもは、きっと喜ぶと思う」
雨がぽつりとつぶやく。その横顔は真剣そのもので、逆に反論できなくなる。
結は制服の上にスタッフジャンパーを羽織り、さっさと仕事モードに切り替えていた。
天は「逆に面白いじゃん!」と楽しげにシャッターを切り、バニラは「バズらせたら公式案件来るかも」とまで言い出す。
唯一、雨だけが小さく俺を見て「……無理なら、代わろうか?」と囁いた。
けれど、四人の視線と笑い声に押されて、俺はぐっと着ぐるみを掴む。
(こういう時だけ団結しやがって……!)
心の中で毒づきながら、俺はイルカの頭部を持ち上げた。
⸻
配布開始。
観光客で賑わう入り口前。
「いらっしゃいませー! 本日限定のキャンペーンです!」
結が声を張り上げる。だが受け取る客はちらほら。
笑顔を作るのも簡単じゃない。表情筋が固まってぎこちなくなっていく。
「こんな可愛い私が笑顔で渡してるのに受け取らないなんて、どういうことなの?」
天が愚痴を漏らす。手持ちのチラシが減らない。
「何枚渡せばレベル上がったことになるのかな」
半分冗談めかして言うけど、目は少し潤んでいる。
「意外と声かけるの勇気いるんだけど」
バニラは表向き堂々とやっているが、視線を逸らす子供に少し焦っている。
「まだ、あんなにあるよ。全然進まない」
紅結の声も弱々しくなる。
「お客さん、中々止まってくれないね」
雨が低く呟く。淡々としているけど、その目も僅かに曇っていた。
一方で――。
「ぷぅ〜〜!」
俺の風船を配る着ぐるみは、なぜか大人気だった。
子供たちが群がり、親まで笑顔でカメラを向けてくる。
風船のストックが減っていくたびに、スタッフに追加を要求する始末。
(なんで俺の方ばっかり来るんだよ……!)
チラシの束はほとんど減らないのに、俺が配る風船だけはどんどん空へ飛んでいく。
入り口の一角に小さな人だかりができ、子供たちは順番待ちまでしていた。
一方で、アイドルたちの差し出す紙は、風に揺れるだけで誰にも受け取られない。
彼女たちの肩は、次第に目に見えて落ちていった。俺は着ぐるみの中で蒸れに蒸れて、全身ぐっしょりだ。
「……なんで? こんなに可愛い笑顔で渡してるのに」
結が半ば泣き笑いのように呟く。
「仕方ないわ。子供はそっちの方がいいもの」
雨は冷静に分析するが、その声にもわずかな悔しさが滲んでいる。
「せめて……オモチャぐらい付けないと、今時は気を引かないよね」
天はチラシを仰ぎながら、空を見上げて苦笑した。
「文句言ってないで手を動かす」
バニラが歯ぎしり気味に声を張る。けれど手は止まっていて、観察用の視線だけは客の流れを必死に追っていた。
「……はあ。夕方までに配り切れるかな」
最後に紅結が深いため息をつく。
その吐息が、紙の角を震わせて消えた。
声も表情も、だんだん削れていく。
⸻
太陽が傾く頃、ようやくチラシは尽きた。
配り終えた四人は壁際に集まり、肩で息をしていた。
「なんとか……終わった」
結が、汗で濡れた紙を握りつぶす。
バニラは「地獄」と一言。天は「日焼け止め塗っとけばよかった」と膝に座り込み、雨は「……疲れた」とだけ。
その顔は悔しさで滲んでいた。
“アイドル”としてステージに立ちたいのに、現実はチラシ配り。
夢と今との距離が、突きつけられた一日だった。
沈む光を背に、紅結が小さく呟いた。
「決めた」
振り返った彼女の瞳には、さっきまでの疲れがなかった。
火が灯ったように真っ直ぐな視線。
「私、あそこのステージに立つ」
彼女が指差したのは、水族館中央のイルカショーステージ。
今日の間中、客でいっぱいだった場所。
「それでこのパラダイスオーシャンを満員にする」
「ビラ配りじゃなくて、ちゃんとアイドルとして呼ばれるんだ」
「アイドルとして、イルカと戯れてやる」
夕陽に照らされた彼女の横顔は、笑顔よりも強かった。
汗と涙と、夢と意地。
その全部が混ざった決意だった。
俺は着ぐるみの頭を外して、重い空気を吸い込んだ。
ふざけた仕事の一日が、確かに彼女たちの心を前に進めた。
(……悪くないかもしれないな)
そう思った瞬間、頬に潮風が触れた。
水族館のイルカの声が遠くで弾け、空は群青に変わり始めていた。
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