第6章 配信の夜と託された課題
夜。
事務所の小さな収録室に、白い輪が三つ、静かに浮かんだ。
リングライトの熱がゆっくり広がり、壁紙の影が淡く丸くなる。
机の上に並ぶのは、マイク二本、オーディオインターフェイス、ミキサー、スタンド、スマホ、タブレット。
ケーブルはコイル状に巻かれ、俺は一本ずつ解いて、足元で噛まないようにテープで留めた。
OBSのシーンを確認。
「待機画面」「オープニング」「歌シーン」「雑談」「エンディング」。
配信キーは有効、チェックは緑。ドロップフレーム、ゼロ。
コメビュは別窓。モデ権限は俺のアカウントにも渡してある。
「テス、テス。紅結、入りまーす」
扉の向こうから、明るく抑えた声。
最初に顔を出したのは紅結だった。髪がリングライトを拾って、紅い粒子が跳ねる。
「天も来ましたー。今日は“甘やかし回”だよ?」
恋乃天。ツインテールを弾ませて、カメラの角度を確かめながら鏡越しに俺へウィンク。
「バニラも。君、ゲインちょい上げ」
推藤バニラ。俺の手元を覗き込み、ミキサーのノブを指でとん、と叩く。
「低域、もう半目だけ開けて」
言われた通りに回す。ヘッドホンでモニターすると、声の縁取りが少し柔らかくなった。
最後に現れたのは、東村雨。
ブルーの髪をかき上げ、無駄のない動作でマイクの前に立つ。
挨拶は短い。けれど、立ち位置は一秒で決まる。
「じゃ、オープニング、三、二――」
指でカウント。
俺はキーボードのリターンを押し、待機画面を切り替えた。
チャットの波が一気に立ち上がる。
“こんハロ〜!” “待ってた!” “通知助かる” “初見です!”
「Open Haloでーす!」
紅結のMCが、輪の中心に灯りを点す。
「今日は雑談と歌、ちょこっとだけゲームもやるかも。みんな、飲み物用意してね!」
「まずはコメント拾っちゃうよ。えーと、“天ちゃん髪可愛い”ありがとう!」
恋乃天が身を乗り出し、画面の向こうに投げキス。
コメント欄にハートの絵文字が飛び、俺のコメビュが高速で縦に流れる。
「“バニたん今日のピンどこで買ったの?”」
バニラはカチ、カチ、と二度瞬きをして、ピンを指で示す。
「企業秘密。けど後でサブにリンク貼るね。君、ハッシュタグ忘れずに」
俺はサブPCで概要欄にリンクの占位テキストを打ち、タグを一つ追加する。
「“雨ちゃん低音ください”」
リクエストに、東村雨が短く頷く。
ミキサーのメインをわずかに上げる。ルームノイズ、ゼロ。
「じゃ、ワンコーラスだけ」
彼女はマイクに唇の距離を一センチ詰め、息を落とした。
低音が、床からじわりと立ち上がり、リングの光が一段やわらぐ。
コメントが一気に溢れる。
“えぐ”“生でこれか”“耳が幸せ”“録音ですか?”
録音じゃない、と俺は心の中でだけ返事をする。ここで鳴ってる。いま、目の前で。
「はい、ありがと。じゃあ紅結、MC戻すね」
「はーい。えー、ここでお知らせ。来週、小さなステージに立ちます!」
天が「わー」と拍手、バニラが「現地勢、集合」と煽り、雨は淡く会釈。
チャットに“行く”“チケどこ”“日程plz”が並ぶ。
俺はスプレッドシートから告知テンプレをコピペ、固定コメントに上げる。
「次は、#OHおたより のコーナー!」
紅結がタブレットを持ち、質問を読み上げる。
「“Open Haloの好きなスイーツは?”」
「私はプリン!」
「私はマカロン!」
「わたしはエクレア」
天が「全部甘いじゃん!」と即ツッコミ。
笑いが回って、空気が一段軽くなる。
「じゃ、歌コーナー行きましょう。“夜の合図”ワンコーラス」
俺はシーンを切り替え、BGMフェーダーを下げる。
四人が輪の内側で目線だけを交わし、呼吸がそろう。
紅結が先導、天が重ね、バニラがハモり、雨が低音で支える。
カメラの赤い点を見つめる四人の視線が、一度だけ重なり、ほどける。
サビでチャットが沸騰し、スパチャが数本、画面の端を走る。
“初投げです!” “いつも元気もらってます!”
俺はモデ画面でスパチャ名を控え、時間を打ち、アーカイブ章立てにクリップを入れる。
終わりの余韻が、数秒、静かに落ちる。
「ありがとう。夜に会えてよかったね」
紅結の言い方が、少しだけ“センター”になった。
マイク越しの笑み。
天が「このあとゲーム?」と肩で跳ね、バニラが「五分だけ」と手で小さな四角を作る。
「さて、最後はお知らせもう一度。詳細はwitterとコミュニティで!」
雨が小さく親指を立てる。
俺はエンディングへシーンを切り替えた。BGMが戻ってくる。
「Open Haloでした!」
四人同時。お辞儀。
画面は待機絵に戻り、コメ欄の速度がゆっくり落ちていく。
配信終了。
OBSの赤い●が消え、部屋に音のない夜が戻った。
「お疲れさま」
俺はボトルの水を四本、テーブルに置く。
紅結はペットボトルを両手で受け取り、「今日、よかったよね」と肩で息をする。
天は「“甘やかし回”優勝」と勝手に自己採点。
バニラは「君のフェーダーの上げ下げ、あれ、よかった」と淡々。
雨はただ「ありがと」とだけ言って、マイクからポップガードを外した。
片付け。
ケーブルを巻く音。キャップが締まる音。椅子が床をこする音。
俺はログを保存し、概要欄を整え、サムネ差し替えの予約をかける。
四人は壁際で肩を並べ、今日の出来を短く言い合う。
ライトが一つずつ落ち、輪が消えるたび、部屋が普通の色に戻っていく。
扉の向こう、廊下は冷えている。
汗が引く。
今日も、画面の向こうに“夜”をひとつ届けた。
俺はモニタを閉じ、息を吐いた。
次の“現実”が、もう扉の向こうに立っているのが分かる。
事務所の灯りが一本だけ残っている。
配信の機材を倉庫に戻し、鍵を掛け、デスクへ戻ると、窓際の席に姉がいた。
グリーンウィンドの社長、風見翠。
ノートPCの明かりに眼鏡のレンズが一瞬だけ光る。
「調子はどうだい?」
「おかげで大変だよ。なあ、そろそろ俺の時給上げてくれないか?」
「随分と生意気なこと言うんだな」
「当然だ。明らかに当初の話より業務量多すぎる。おかげでクタクタだよ。まともに授業で集中できない。」
「うるさいやつだな。勉強に集中できないのを私のせいにしてもらっては困る。」
「とにかく、対価が足りないと思うんだ」
「そうだな。確かに一か月、よくやってくれてる。」
「そうだろ。自分で言うのもあれだが、中々の働きっぷりだと思うぞ。」
「そしたら、チャンスをやろう」
「チャンス?」
「私のテストで満点取れたら時給上げてやる」
「本当か!」
「ああ。嘘はつかない」
確かに、いつも嘘はつかない。
ただ、思うところはある。
“チャンス”という言葉は、この姉の口から出るときだけ、だいたい罠の匂いがする。
「何か言いたげだな? 別に私はそのままでもいいんだけど?」
「やるやる。やらせていただきます。」
「じゃ、これな」
差し出されたのは、A4二枚のテスト用紙。
タイトルは“グリーンウィンド基礎知識テスト”。
項目を流し見る。
――事務所名。住所。電話番号。最寄り駅。備品の管理場所。
――所属ユニット名。メンバー構成。スケジュールの共有手順。非常時の連絡網。
(いける。これはいける)
俺はシャーペンの芯を押し出し、名前欄に自分の名を書いた。
サラサラ、とペン先が走る。
事務所名:グリーンウィンド。
住所:××区××。ビル名、階数。
電話番号:代表、内線、携帯。
最寄り駅:徒歩五分。出口番号。
備品:リングライト/三脚/インターフェイス/スペアケーブル、倉庫B。
ユニット名:Open Halo。
メンバー:紅結、東村雨、恋乃天、推藤バニラ。
共有手順:Googleカレンダー→Slack連絡→最終確認は朝の立ち会い。
非常時連絡:社長→各担当→メンバー順。
順調。
この一か月、実地で叩き込まれたものばかりだ。
なんだかんだ言って口実作りだったのか、など思いながら、最後のページに進む。
下段に項目が並ぶ。
――「芸名」と「本名」――
ペンが止まった。
(芸名と……本名)
紙の白さが急に強くなる。
紅結。
恋乃天。
推藤バニラ。
東村雨。
本名。
俺は、知らない。
紅結は“紅結”として俺の前に立っている。
天は“恋乃天”。
バニラは“推藤バニラ”。
雨は“東村雨”。
ここで働いている俺でさえ、その仮面の向こう側は、まだ開けていない。
「どうだ? 全て解けたか?」
姉の声が、ぴたりと静けさを切る。
くそ。知ったような顔して。
「問題はそのままにしといてやる。解けたら時給アップだ。頑張りたまえ。」
視界の端で、姉が椅子の背にもたれて腕を組む。
テストの最後の四行が、薄く、でも確かに浮き上がって見えた。
――芸名/本名。
そういうことか。
「責任はない仕事だ」と最初に言ったくせに。
ここだけは、俺が手で開けないと進めない場所。
“Open Halo”。“栄光を開け”。
なら、最初に鍵穴へ指を伸ばすのは、俺の方だ。
俺はシャーペンを置き、用紙をそっと伏せた。
回答欄は空白のまま、風だけが通り過ぎる。
満点への道は見えた。けれど、簡単じゃない。
「期限は?」
「私の気分次第だ。現場で覚えろ。紙で覚えるな」
短く言って、姉は立ち上がる。
ノートPCを閉じ、電源を抜き、コードを束ねる。
ドアへ向かいながら振り返り、片手を軽く上げた。
「おやすみ。マネージャー候補くん」
扉が閉じる。
残った部屋は、蛍光灯の薄い白。
テスト用紙。
空欄。
四つの名前。
紅結。
恋乃天。
推藤バニラ。
東村雨。
紙はまだ白い。
けれど、今日の配信で確かに見た。
笑う顔。歌う横顔。
カメラの向こうに、届いていく光。
俺は椅子を引き、立ち上がった。
リングライトの残り香が、まだほんの少し、空気にある。
明日の予定に、ひとつだけ手書きする。
――“本名は、向こうから名乗られたときに呼ぶ”。
それが約束で、ルールだ。
焦らない。
でも、逃げない。
用紙をファイルに挟み、デスクの引き出しにしまう。
鍵はかけない。
開けるためにしまう。
俺のテストは、もう始まっている。
帰り支度を終え、消灯に手を伸ばす。
部屋が闇に沈む瞬間、今日の“夜”がもうひとつ、静かに生まれ直した。
ドアを閉め、階段を降りる。
息を吐いて、笑った。
満点の条件は、画面の向こうにある。
それをここへ戻してくるのが、俺の仕事だ。
時給の話は、その先でいい。
今はただ、歩く。
名前の向こうへ、届く足音で。
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