第5章 東村雨という無音
まだ、ひとりだけまともに話していない子がいる。
東村雨。
事務所の階段ですれ違ったことはある。けれど、それっきり。
青い髪が揺れて、ヘッドホンを外さず、軽く会釈しただけで通り過ぎていった。
その一瞬が、やけに強く頭に残っている。
噂では、歌の才能は抜群。外仕事も一番多い。
実際に配信アーカイブを覗いてみると、ほとんどが歌枠ばかり。
そして――確かに上手かった。
ただ「音程が正確」とか「声が通る」とか、そういうレベルじゃない。
息継ぎの間、語尾の残し方、リズムの取り方。全部が計算されてるようで、自然に聞こえる。
コメント欄も毎回盛り上がっていて、
“今日も神回”
“雨ちゃん低音エグい”
“ラジオ出演おめ!”
そんな文字が流れるのを見て、俺も思わず納得した。
(今日、収録に来るはずだよな。……さすがに挨拶ぐらいはしておきたいけど)
机の上の付箋に「雨/来社」と書き足す。
こうでもしないと、うっかり流してしまいそうで。
輪ゴムとクリップの山を横目に、俺は深呼吸する。
そのとき、ガラス戸の向こうで影が揺れた。
――扉が、開く。
青髪ロングを揺らし、ヘッドホンをした彼女が入ってくる。
背筋がまっすぐで、視線はまるで定規で引いた線みたいに前だけを向いていた。
「よう。おはよう。」
少し声が上ずった。自分でわかるくらい。
「……おはようございます。」
それだけ。
彼女は棚からケースを取り、パスカードと荷物をまとめ、出口へ直行する。
挨拶、完了。それで終わり。
(おいおい、無関心にも程があるだろ!?)
思わず、呼び止めていた。
「ちょ、待って! 先週からお世話になってる社長の弟で――風見颯って言います。よろしく!」
彼女が、こちらを見る。
冷たいというより、温度が一定の視線。
その正確さに、逆に息が詰まる。
「……知ってる。東村雨。」
短く言い切って、ドアノブに手をかける。
金属の音。蝶番の軋み。
ドアは静かに閉まり、足音はもう聞こえなかった。
(え、これ……成功ってことでいいのか?)
椅子に戻る。
机の角に置いたメトロノームアプリを起動する。
カチ、カチ、と一定のテンポ。
胸の奥に残るのは――冷たい余韻。
嫌な感じではない。ただ、何も触れられなかった感覚。
挨拶はした。けど、壁一枚越しに声をかけただけ。
そんな距離。
書類を片付けながら、彼女の歌声を思い出す。
無駄な音がひとつもない。
だから返事も“必要最低限”なのかもしれない。
ふと、棚に置かれたファイルの背に目が止まる。
《雨》とだけ書かれたインデックス。
中には外仕事のスケジュールやリハのメモが整然と並び、余白はほとんどない。
丸も、ハートも、感嘆符もない。
ただ事実だけが並んでいる。
――なるほど。
この人は、“無駄な装飾をしない子”なんだろう。
名前の通り、雨みたいに。
ただ降って、ただ過ぎていく。
濡れるかどうかは、受け取る側次第。
スマホが震える。姉からのメッセージ。
《雨、外ロケ一本寄ってから収録。夕方戻り。無理に話しかけなくていい》
“無理に話しかけなくていい”――つまり、俺がもう話しかけたことを見抜いているわけだ。
苦笑いしか出ない。
ペンを取り、今日のToDoに線を引く。
《雨:挨拶/済》
それだけでページの空気が少し整った気がした。
窓の外では、雲が低く垂れこめている。
まだ降らない。けれど、今にも落ちそうに重たい色をしている。
――東村雨。
胸の奥に残った冷たい余韻が、しばらく消えそうになかった。
午後。
書類をまとめ終えた頃、事務所のドアがにぎやかに開いた。
「ただいま戻りましたー!」
元気な声が部屋を揺らす。紅結だ。
ポニーテールを弾ませながら、手に提げた紙袋を掲げる。
「差し入れ! コンビニスイーツ!」
「おお、ありがたい。……って、それ全部甘いやつじゃないか」
「当たり前でしょ。疲れたときは糖分です」
机の端に並べられたプリンやシュークリーム。
その甘ったるい香りだけで、さっきまでの雨の冷たい余韻が溶けていく気がした。
「颯さんもどうぞ」
「いや、俺は――」
「遠慮禁止です。推しマネージャー候補なんですから」
笑いながらプリンを押しつけてくる。
“推し”という言葉が、また胸に引っかかった。
さっきの雨とのやりとりを思い出し、返事に詰まる。
⸻
「お、みんなもう集まってたんだ」
今度は恋乃天が入ってきた。
ツインテールを揺らして、ひょいと机の上を覗きこむ。
「わ、スイーツ会? ずるい! 私も混ざる!」
包装を破って一口頬張ると、わざとらしく目を細める。
「うーん、やっぱり甘いものは正義だね。ファンサでも“甘やかし”は最強!」
「そんなこと言うの、天ちゃんだけだよ」
紅結が苦笑し、俺は手にしたプリンをスプーンで崩す。
冷たさと甘さが一気に口に広がった。
――たしかに、悪くない。
⸻
そして最後に現れたのは、推藤バニラ。
「……なんだかいい匂いすると思ったら。やっぱりそういうことね」
彼女は腕を組み、半眼で俺を見下ろす。
「君、ちゃんと食べた? アイドルの差し入れを断ったら炎上案件だからね?」
「そんな案件聞いたことないけど」
「あるの。私の中で」
強気な口ぶりに場が和む。
だがその口元には、うっすら笑みが浮かんでいた。
「はい、あーん」
突然スプーンを突き出され、俺は反射的にのけぞる。
「お、おい! ふざけんなって!」
「冗談よ。でも反応かわいい。……観察メモ追加っと」
彼女はスマホを取り出して、何やら打ち込む。
“人間観察”という言葉が似合う仕草だった。
⸻
気づけば、部屋は甘い匂いと笑い声で満ちていた。
冷えきった空気を残して去っていった雨の余韻は、もうどこにもない。
紅結は几帳面にゴミをまとめ、天は口の端にクリームをつけ、バニラは勝手に俺の飲み物までチェックしている。
それぞれが好き勝手に動いているのに、不思議と居心地が悪くなかった。
賑やかで、温かくて、落ち着かない。
だけど――どこか心地いい。
(……なるほど。これが“Open Halo”ってやつか)
俺は手元のプリンカップを空にして、ため息をひとつ落とした。
小さな輪の中で、少しずつ自分も巻き込まれていくのを感じながら。
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