第4章 推藤バニラという観察者

 昼。

 事務所の空気は、冷房の風音とプリンターの低い振動音で、ほとんど止まっているように見えた。

 昨日までに積んでいた紙の山は少しだけ低くなり、そのかわりに机の端に輪ゴムの小さな墓場ができている。

 蛍光灯の白が書類の端で跳ねる。

 俺はホチキスを握ったまま、山の高さを目で測っていた。


「順調?」


 唐突に、背後から声。

 思ったより近い。軽く弾む、リップノイズの少ない声質。マイク越しに聞き慣れた種類の音だ。


「おわっ、いたのか。」


 反射で振り向く。

 白にミントのアクセントが入った髪。セミロングが肩で切れ、毛先がぴょこんと跳ねる。

 小柄。けれど、視線の置き方と笑い方で空間を取るタイプ。

 スマホと小さなミラーを持ち、入り口の影からするりと現れる。


「ふふっ。最初の出会いって大事でしょ? 強い印象、残しとかなきゃ。」


 第一声から自分でハードルを作って、軽々と飛び越えてくる。

 ……出会い頭からクセが強い。


「俺は先週入った社長の弟、風見颯だ。よろしく。」


「推藤バニラ。よろしくね。」


 名前を聞いた瞬間、頭の中でいくつかの警戒アラームが鳴る。

 “推される藤”に“バニラ”。甘い。意図的。商品名みたいだ。

 気づけば、じっと見てしまっていた。


「なによ、そんなジロジロ見て。……まあ、アイドルってそういうものでしょ? 見られるのが仕事。遠目から好きな女の子を視線で刺し殺すかの如く見たらいい。ま、でも、もうちょっと紳士的にお願いしたいかな。」


「いや、名前が珍しくて。本名と関係あるのか?」


「アイドルが簡単に本名なんか出せるわけないでしょ。……ほんと、君は馬鹿だなぁ。」


 言葉は強い。

 けれど口元が、ちょっとだけ緩んでいる。

 照れているのか、からかって楽しんでいるのか、その両方か。


「ああ、悪かった。それで何のようだ? 社長は夜まで戻らないって言ってたぞ。」


「知っている。スケジュールアプリ見ればそんなのわかる。今時それぐらい当然。」


「そうかい。俺はまだ共有してもらってないんだよ。」


(誰かそれを先に教えろよ。なんで今知るんだ?)


 内心でだけ毒を吐く。

 バニラは机の上の輪ゴムやクリップに視線を落とし、指先でひとつ摘んでは戻す。

 動作が小気味いい。カメラの前のテンポが、そのまま現実の速度になっている。


「で、要件は?」


「君に質問。……趣味、なに?」


「趣味? なんでそんなこと。」


「人間、好きなものを語る時が一番かわいいんだよ。ほら、私が観察してあげるから。」


 観察。

 その単語を、彼女は甘い声で平然と口にする。

 “推藤”という苗字に込められた方向性が、隠しようもなく滲む。


(こいつ……やっぱり変なやつだ。)


「最近は忙しくて特にない。昔はスポーツやってたぐらいだな。」


「……そう。」


 小さく俯く。前髪が、光を細く切る。

 表情を作るのが上手い子が、ほんの一瞬だけ “素の運動” を忘れると、年相応の影が出る。


「でもゲームとかはよくやってたな。」


「ほんと!? やっぱり! 君、オタクの匂いがすると思ったんだ!」


 ぱっと顔を上げる。

さっきまでの理屈っぽさが吹き飛んで、年相応の女の子の顔。

 笑った目尻は少しだけ三日月。頬に薄いえくぼ。小さな犬歯が覗く。


「ありがと。君なら……配信の裏側の私も見てもらえる気がする。」


 照れ隠しみたいに言って、くるっと背を向ける。

 その背中は小さいのに、場の中心をさらっていく種類の背中だった。


 ――さっきまで“変人”だと思ってたのに。

 一瞬見えた素顔に、不覚にもドキッとする。


 ここで会話が終わり、空気が少し落ちた。

 ふと、リングライトの光が消えていることに気づく。

 壁際に畳まれたスタンド。ケーブルはきれいに巻かれ、コンセントから外されている。

 収録室のランプは赤ではなく、透明。今日は配信がない日か、あるいは夜に回すのか。


 バニラは机の端に置いていたミラーをぱたんと閉じ、こちらへ向き直った。

 ミント色のピンがひとつ、耳の下で光っている。

 小さなアクセントが、彼女の名前をもう一度なぞっていった。


「ねえ風見くん。」


 いつの間にか呼び方が苗字に変わっていた。距離の演出。

 彼女は指で空中に小さな四角を描く。

 画面。フレーム。視野。


「私、観察は得意なんだけど、観察されるのも嫌いじゃないの。……だから、ちゃんと見てね。」


 そう言って、肩をすくめ、いたずらっぽく笑った。

 ミントと砂糖の間にある、軽い香りが空気を薄く甘くする。

 俺は返事の代わりに、机の上の名札の束を片付け始めた。

 手の動きが、さっきより丁寧になるのを、自分で自覚した。


 バニラは踵を返し、収録室のほうへ数歩。足を止め、振り返る。


「今度、君の“好き”も、ちゃんと聞かせてね。」


 ウィンク。

 それは合図のように軽く、そしてプロの確度で正確だった。


 ドアが閉まる音。

 静かさが戻る。

 俺は椅子の背にもたれ、天井の角を見上げた。


 ――推藤バニラ。


 甘い名前。商品名の匂い。

 けれど、中身は思ったより、体温がある。


 ホチキスの針が切れた。

 補充しようと引き出しを開ける。

 新しい箱の銀紙が破れる音が妙に大きく響いた。


 紙の束をそろえ、カチリと綴じる。

 輪ゴムの墓場をまとめて捨て、デスクマットを拭く。

 些細な整頓が、少しだけ楽しくなる。


 遠くでエレベーターが止まる音がした。

 誰かの笑い声。

 他愛もない生活音に混じって、さっきの「観察してあげるから」という台詞が、耳の奥に残響する。


 観察する/される。

 その二項の境目に、名前が置かれる。

 “バニラ”。

 呼べば、こちらを見る。

 呼ばなければ、ただの画面の中の味。


 俺はシャーペンを回し、机の端に小さくメモした。


 ――推藤バニラ、収録室。


 それだけ書いて、線を一本引いた。

 些細な線。けれど、それで今日のページが閉じる気がした。

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