模倣囚

 これは私がまだ二十歳になりたての頃の話だ。

 私は当時、木造の安いアパートに住んでいた。

 大学生向けに売り出している、如何にもな六畳一間の狭い部屋だ。

 築年数も古く、オンボロな見てくれを幾度も改装で誤魔化してきた痕跡が垣間見える、そんな物件。

 とはいえ、当時は貧乏だったし、大学まで徒歩十四分というアクセスの良さは面倒臭がりな私にはあまりにも魅力的だった。

 周囲の治安も悪くなく、坂道を下って駅近までいけば飲み屋にスーパー、雑貨屋も最低限揃っている。

 強いて言えば各駅停車しか止まらない小さな最寄り駅なのと、終電が早いこと。この二点だけは不便だったといえる。


 さて、本題に移るとしよう。


 本題は私がかつて棲んでいたこのアパートに関してだ。

 木造で薄い壁一枚に隔たれているだけのアパートは隣人の声が筒抜けで、なんだったら隣どころか隣の隣ぐらいまで筒抜けなんじゃと疑いたくなるほど酷い出来だった。

 破格の安さで貸し出されていたのも納得の状態で、友達を呼んで宅飲みで騒ぐなんてまず出来ないし、彼女を招いて一夜を共に過ごすなぞ絶対にするべきではない。

 そんなわけで私は家に居る時は殆どの時間を一人で適当に過ごしていたが、ガサツな性格だと自負している私は特段気にすることもなく、大学生活を謳歌していた。

 事件もなく事故もなく、重い病気にも罹らず極めて平和で順風満帆な生活。

 ただ、一つだけ、別に迷惑を被ったわけではないのだが変な出来事に遭遇していたのだ。

 それは隣人の出す生活音だった。

 さっきも言ったように、うちのアパートではあらゆる音が筒抜け。

 玄関のドアの開け閉めは勿論のこと、洗濯機にトイレを流す音、足音に着信音、目覚まし時計のアラームに至るまで全て聞こえる。

 私は右の角部屋に住んでいたから、真横の隣人は左の一室だけとなる。

 その隣人の立てる音が変なのだ。

 異変に気付き始めたのは、アパートに引っ越して一年かそこらした辺りからだった。

 最初は偶然にも生活リズムが同じ人なのかなと思っていたのだが、私が洗濯機を回せば隣の部屋からも洗濯機を回す音が聞こえてくる。私が皿洗いを始めれば隣人も皿洗いを始める。私がトイレに行けば隣人もトイレに行く足音が響き、あまつさえ洗浄ハンドルを捻って便を流すタイミングまで一緒なのだ。

 ……ああ、一緒というと少し語弊がある。

 正確にいえば私の行動に少し遅れて隣人が追従してきている。

 まるで親の言葉を反芻する幼児のように、或いは人間の言葉を覚えて返すオウムのように。

 あまりにも一致する生活音に私は薄気味悪さを覚えるようになっていたが、とはいえ直接なにか迷惑しているわけでもないし、本当に私の行動を真似ているのなら、関わると危ないタイプかもしれない。

 面倒事を避けたかった私は、玄関チャイムを直接鳴らして訊ねることは最後までしなかった。

 不思議な隣人の生活音はその後もずっと続いた。

 掃除機をかければ掃除機がかかる。

 しかも最初は型式が違ったのか、起動している時の音が違った掃除機が次の週にはどういうわけか私のかける掃除機とよく似た音のものに変わっていた。

 課題の為にノートパソコンを起動し、キーボードを叩いている間にも、うっすらとだが横からキーボードを叩くような音が聞こえてくる。

 あまりにも奇妙だ。

 しかし生活を続ける中で、私は隣人の行動にある一定の法則があることに気が付いた。

 それは私が部屋の中にいる間の音だけを真似ているということだ。

 ベランダに出ても、隣人がベランダに出てくることはない。

 玄関のドアを開けても、別に隣人は玄関のドアを開けない。

 仮に相手が私を真似ているのなら、私と直接顔を合わせる状況にはなりたくなかったのかもしれない。

 私としても正直それは救いだった。

 隣人がどんな見てくれをしていて、私にどんな感情を向けているのか。それを直接対面して拝むというのは、流石に寒気がする。

 とはいえ、世間では昼夜を問わず奇声を上げたり、壁を殴り続けたり、通路口の廊下にゴミを放棄したりと、もっと実害のある迷惑な隣人がどうしても一定数居ると聞く。

 そういった分かりやすいハズレクジを引かされる災難に比べれば、私が被っていた奇妙な出来事はまだマシといえた。

 ただ、それでも恐怖に腰が抜けそうになってしまった日がある。

 その日は卒論に追われていて、パンクしそうになる頭を整理するためにブツブツと独り言を発しながら私は液晶画面に食いついていた。

 別にそこまで大きな声で喋っていたつもりはないし、流石に隣人にも聞こえないだろうと思っていたのだが、暫くして隣からもブツブツと人の声が聞こえてくることに気が付いた。

 まさか……と思い、私は恐る恐る隣室に面した壁に近付いて、耳を押し当ててみた。

 聞こえた。

 つい今しがた、私が発していた独り言が。

 一言一句違わず、私の喋り方のトーンも真似した風の、ぶつぶつとした声が。

 聞こえたのだ。

 暫くその場から動けなくなり、私は黙りこくったまま隣人の真似事に耳をそばだてた。

 やがて独り言が聞こえなくなる。

 嫌な静寂に、私は緊張のあまり生唾をごくりと飲み込んで、膝をついた。

 少しの間を置いて、隣室からも同様の音が聞こえてくる。

 恐ろしかった。

 よほどの地獄耳でもない限り、相手と私の音が聞こえる環境は一緒のはずだ。

 であるならば、隣人は今まさに壁一枚隔てたすぐ傍で、今こうして片耳を壁に押し当てる私と同じ姿勢で、こちらの小さな音に耳を澄ませているのではないか?

 そもそも、音を真似するだけなら必ずしも私と同じ場所に最初から立っている必要はない。

 台所から音がすれば台所に向かえばいいし、風呂場にトイレも同様だ。

 実際に隣人の鳴らす音には一定の遅れと足音があり、それは私の音を聞きつけて所定の場所に移動している証拠に他ならない。

 ともすれば、隣人は普段どこに居るのか。

 隣の音を盗み聞きしたいなら、より聞きやすい場所に居るのではないか。

 今、こうして耳を壁に押し当てている私のように。

 背筋に悪寒が走り、私はたどたどしい足取りで壁から身を離し、イヤホンを耳に挿してスマホで好きな曲を流しながらベッドに横になった。

 なるべく隣人のことは考えないようにし、曲のメロディに集中しながら目を閉じる。

 やがて緊張がほぐれ、気付けば私はぐっすりと眠っていた。

 次の日からはもう、私は隣人についてこれ以上探りを入れることをやめにした。

 変わらず私の生活を模倣した生活音が聞こえてはくる。

 だが、就活も終え、無事に卒論を提出できれば晴れて社会人。

 今の賃貸ともおさらばし、仕事場に近い別のマンションに引っ越す予定だ。

 もう少しの辛抱。そう思って、私は極力気にしないように努めて残りの時間を過ごした。

 幸いにも、何事も起こらずに済んだ。

 そういえば引っ越し作業の音はどう真似するつもりなのだろう?と好奇心が過ぎったが、返ってきたのは荷造りの音だけで、やはりというべきか荷物を外へ運び出す工程になると何も聞こえなくなった。

 部屋の中だけで完結する音しか拾っていないのだろう。

 それから私は新社会人としての生活にあれこれ苦労しながらも、新しい住まいで特に変わった出来事に遭遇することもなく歳を重ね、やがて大学時代に少しの間だけ付き合っていた彼女と不思議な縁で再会を果たし、あれよあれよと結婚をして、今ではもう小学生になりたての娘を持った一児のパパである。

 何不自由なく、毎日楽しく暮らしている。善き妻と愛い娘に囲まれて、幸せの絶頂期だ。


 ……ただ、隣人の話にはまだ続きがある。

 可愛い娘を自慢したくてつい現在の話を先にしてしまったが、少し話を巻き戻そう。

 新社会人の時代に住んでいた物件は一人暮らし用の広さで、家庭を持つには流石に狭かった。

 だから妻と同棲生活を始めるにあたり、私は家族暮らし向けの分譲マンションに引っ越すことにした。

 そこに今も暮らしているのだが、不思議な縁があるもので、ここを紹介してくれた不動産屋の相手が当時あの木造アパートを私に紹介してくれた人と一緒だったのだ。

 書類の名義と私の顔を視線が往復し、「〇〇さんですよね! あの時の!」と担当者は嬉しそうに挨拶をしてくれた。

 あの賃貸は私にしてみれば最高の物件であったし、そこを紹介してくれた相手に何年も経った今でも顔を覚えていてもらったというのはとても嬉しく、自然と会話に華が咲いた。

 そして、大学時代に付き合っていた彼女と改めて交際を始め、結婚も検討しているという話に触れた折、担当者は「……大学」とぼそりと呟き、口にするべきか暫し悩んだ様子で額の皺を寄せながら、やがて意を決したように話し始めた。

 

「僕があの時紹介したアパートなんですけどね、あっこ二年前に立て壊されたんですよ」

 

 初耳だった。

 そうなんですか?と訊ねると、担当者は「ここだけの話なんですけどね」と内緒話をするていで顔を近付けてきた。

「僕も解体工事の現場から聞いたんですけど、なんでも壁の中に大量の紙が敷き詰められてたらしくて」

「紙?」

「ええ。104号室と、〇〇さんが住んでた105号室の間の壁」

 どういうことなのか全く話が掴めず、私は怪訝な顔で続きを促した。

「ああ、〇〇さんに何か文句があるってわけじゃないんですよ。引っ越しなされた時も、お部屋綺麗でしたし。問題は104号室の人でして……」

 104号室、例の隣人の部屋だ。

「立て壊しが決まった頃にはもう誰も住んでなくて、以前住んでらっしゃった入居者さんも〇〇さんが引っ越してすぐに退去したんですけど」

 担当者が相当嫌そうに眉をしかめる。

「もう部屋中荒れ放題で。壁中に落書きしてあるわ、ところどころ穴も空いてるわ、畳なんかどういう生活してたらああなるんでしょうね。新聞やらコピー用紙やらがべったり貼り付いて、溶けてベトベトになっちゃってて」

 迷惑な人も居たもんですよ、と溜め息を吐く。

 住んでいた人の情報をあけすけに語るのは、信用に関わる気がしないでもないのだが、だからこそ『ここだけの話』と言い含めてきたのだろう。

「それでまあ、部屋自体はなんとか綺麗にして壁の穴も直したんですけど、まさか壁の中にまで悪戯してるなんて思わなくて。だから立て壊しのタイミングで判明したんです」

 隣人について私が知っているのは、音を真似しているということだけ。

 それ以外にどんな生活を送っているかは興味も無かったし、アパートの内廊下で顔を合わせたことすら一度も無かったから、数年の時を経て初めて知る実態だった。

「開けた穴から、丸めた紙をどんどん詰め込んでたんでしょうね。中の紙も湿気で劣化してて、殆どボロボロになってたんですけど、ところどころまだ読める箇所もあって」

 躊躇いがちに担当者が口をつぐむ。

「あの……何が書いてあったんですか?」

 気まずい静寂に耐えられず、問う私に担当者は観念したようにかぶりを振ってから話を再開した。

「会話が記録されてたんですよ。宅配とか、点検工事の確認とか、そういう際のやり取りが。で、そのやり取りの中に〇〇さんの名前が入ってたんです。それに会話だけじゃなく、何時何分にトイレに行ったとか、歯を磨いたとか、そういう記録みたいなものも含まれていて……」

 私の名前……。恐らく配達物を受け取る際にでも、配達員が口にしたのだろう。

 担当者の言わんとしていることが私にもようやく理解できた。

 つまり、あの隣人は私の会話を逐一記録していたのだろう。

 何の理由があってそんなことをしていたのか。皆目見当もつかないが、かつての自分が想像した、壁に耳を押し当てじっとしている隣人の姿に新たな解像度が加わった。

 隣人は壁に耳を押し当てながら、手に持った用紙に105号室の住人――私の生活を記録する。そして、それを次から次へ壁の中に詰め込んでゆく。

 なんとも奇妙な姿だ。一周回って薄気味悪さすら感じない。

「その……こう言っちゃなんですが、〇〇さんお祓いとかされた方がいいと思いますよ。これからご結婚も控えてるんですし」

 なるほど。確かにあの隣人の奇行はストーカーのそれというより、もっとオカルトめいたまじないのように感じられる。

 ただ、私は担当者の気持ちだけを受け取って、朗らかにその提案を断った。

「私なら大丈夫です。今凄い幸せですし、まあ、はい。なんかあったらまた考えてみます」

 担当者は何故か怪訝そうに顔をしかめたが、この話は結局それで終わりとなり、後はとんとん拍子で新しい住まいの話に移った。


 あれから更に数年、今でも私はお祓いなんて受けていない。

 なにせ不幸な出来事なんて一度も無かったからだ。

 むしろ、幸運ばかりが舞い込んでくる。

 新社会人になりたての頃、反りが合わないと感じていた上司が居たのだが、私が仕事に苦痛を覚えるより先に会社のビルの屋上から飛び降りて死んでくれた。

 一時的に会社は騒然としたが、私は嫌いなクズが減ってくれて清々しい気持ちで仕事に打ち込めた。

 おかげで昇進も早く、今では課長になっている。

 妻と再会できたのも幸運だった。

 大学時代、私と別れた妻は別の男と付き合っていた。結婚も考えていたらしい。

 しかし、その男はある日突然首を吊って自殺した。

 理由は分からないらしい、わざわざ妻に苦しい過去を思い出させたくもないから深く追及もしていない。

 ただ、結婚を検討するほど懇意にしていた相手を置いて勝手に死ぬなぞ、最低な男のすることだ。そんな奴、死んで当然だ。

 そんな男とより長い時間を共にしていたら、妻はもっと不幸な目に遭っていたかもしれない。

 想像するだに耐えられない。

 だから、その男が死に、傷心の渦中にあった妻と偶然再会できたのは嬉しかった。

 私なら妻を幸せにしてやれる。彼女の傷を癒してやれる。支えてやれる。

 これからも続くであろう幸福を、妻と娘と三人で、私は生きてゆく。

 



 ――不動産屋の担当者から木造アパートの顛末を聞いた私は、あの後すぐに立て壊された跡地に足を運んだ。

 私と隣人が住んでいたのは一階。壁の中に紙を敷き詰めていたのなら、地面の下にも埋めていたのでは?

 そう思い、私は人目にバレぬよう細心の注意を払いながらスコップで跡地の地面を掘った。

 目当てのものはすぐに見つかった。

 工事中に発見されなかったのは奇跡といえよう。

 それらを箱に収め、自室に供えてからというもの、私の人生は幸福に満たされている。

 お祓いなんてとんでもない。

 老いさらばえ、天寿を全うするまで、手放すものか。

 これは私だけの、ものなのだから。

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散逸的な小噺集 澱傍織 @orinoori

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