散逸的な小噺集
澱傍織
デトックス
俺は小学生の頃、書道教室に通っていた。
好きだったから……というより、親にやりなさいと言われて、
そうなんだ、じゃあやろうと深く考えず打ち込んでいた習い事。
書道教室には同級生が一人居た。
日がなクラスメイトと悪ふざけを考えて、先生を何度も怒らせていた俺とは対照的に、学校でも、書道教室でも、ずっと静かで目立たない。そんな奴。
空気というほどではない。クラスの皆も知っているし、仲間外れにされてたわけでもない。先生に名前を呼ばれれば、教科書の問いにだってちゃんと答える。
……ただ、あいつが自分から誰かに話しかけていた所を、俺は一度も見た覚えがない。
本当にただ、そこにいるだけ。
退屈な授業中、教室から校庭を見下ろした時に目に映る、木々や花壇のような存在。
そんな同級生にも、目立つ瞬間があった。
書道だ。
あいつが書く字はガキの俺にも分かるほど別格で、市に表彰されたり、もしかしたら天才少年とテレビに取り上げられても不思議じゃないと思えるほど綺麗だった。
でも、実際はそうならなかった。
書道教室の先生にも凄いと褒められていたが、それ以上は目立たなかったのだ。
何でだろうと、いまだに思う。
はっきりとはよく分からない。
ただ、あいつの書く“漢字”に問題があったのかもしれないと今は思う。
「これ、なんて漢字?」
全く読めない、ごちゃごちゃとした画数の多い漢字に当時の俺はそう聞いた。
「これはね、瘡蓋って書いたんだ」
自慢げにするでもなく、恥ずかしそうにするでもなく、ただ淡々とあいつはそう返した。
あまりにも習字で書く漢字のイメージからかけ離れすぎていて、俺は最初、怪我をした時に出来るあのかさぶたの事を言っているのだと理解できなかった。
「ふーん、そうなんだ」
ただ、何となく。
無表情の上に張り付けたような、独特な笑みで口角を吊り上げるあいつの顔を不気味に感じて……それからはもう、今日は何を書いているのか聞かないようにした。
少年心に悔しかったというのもある。
先生に褒められるのはいつもあいつ。
俺は才能が無かったから、学校と違って書道教室ではパッとしなかった。
目立ちたがり屋な性格だった俺は嫉妬していた。
どうしてあんな奴が褒められて、俺は何も言われないんだと。
自然と俺の関心は書道から離れていき、中学生に進級すると同時にぱったりと辞めた。
代わりに塾に通うようになったから、親にもとやかく言われずに済んだ。
あいつも別の中学に行ったから、顔を見ずに済んで清々した。
それでも、小学校の頃に抱えていた悔しさはふとした瞬間に浮かんできては俺を悩ませたものだ。
ただ騒いで場を賑やかすのだけが取り柄じゃない。
そう自分に言い聞かせるように、スポーツに音楽に絵。色んな趣味を転々としては、その度にパッとせず、またすぐに飽きてしまう自分自身に辟易として、また別の趣味に手を出した。
挫折する度、脳裏に過ぎる、あの時のあいつの顔。
その不気味さとは対照的に、書道教室に通っていた他の子や先生の目を奪う圧倒的な存在感。
今にして思えば、どうしてあんなに無気になっていたのだろうと不思議だが、当時はれっきとしたコンプレックスだった。
とはいえ、中学も過ぎ高校生にもなると書道教室の記憶も薄れ、俺は相変わらず友達と馬鹿をやって先生に叱られる。そんな学生生活を送り続けていた。
だから、あいつとまた会うことになるなんて思いもしなかった。
ある日の放課後、学祭の準備に追われていた俺は普段あまり通らない別棟の廊下を通りがかった。
そこは書道部がある部屋のすぐ横で、無意識に避けていた書道の作品群が展示された壁に俺はうっ……と立ち止まり、そして夕暮れの教室の中に一人残る生徒の姿に偶然目を停めた。
小学校以来に見る姿にも関わらず、俺には何故かあいつだとすぐに分かった。
無表情なのに、書道用紙を見下ろす目だけが薄暗い廊下に爛々と光って見えて、あいつは異様な存在感を放っていた。
後に先生に聞いて知った事だが、奇しくも同じ高校に在籍していたあいつは俺の居るA組ではなくB組に編入していたらしい。
「なに書いてんの?」
何故かその場を離れる気になれず、自分でも気づかぬ内に書道部の部室に踏み入っていた俺は、そう聞いていた。
「ああ、君か」
小学生ぶりに会うはずの俺の顔をあいつも覚えていたのか、まるで顔馴染みの友達にするような言い様で返された。
それにも何故か当時の俺は不審に感じず、熱に浮かされたようにあいつの書いている漢字をじっと凝視していた。
そんな俺に、あの日の再現のようにあいつは口角を吊り上げて言った。
「これは痣だよ」
小学生だった頃とは違い、高校生の俺は漢字の意味を理解して明確に気持ち悪いと感じた。
「なんで、んなもん書いてんだよ……」
嫌悪感をもろに顔に出していた俺の質問にも、あいつはけろっとした表情で返してきた。
「ドクターフィッシュって知ってる?」
「は?」
急に振られた、習字とは無関係な話題に俺は呆気にとられた。
「あれと一緒、だから続けてるんだ」
困惑する俺を他所に、あいつはそう言い終えるや否や急に俺から興味を無くしたように視線を落とし、また習字に夢中になった。
訳も分からず、ただ用は済んだと感じた俺は夢の中にいるような浮遊感を覚えながら、その場を立ち去ったのを今でも覚えている。
あいつの語ったドクターフィッシュがどういうものなのかは、後から調べて知った。
そして俺は書道教室であいつが書いていた漢字の数々を思い出した。
当時は読めなかったものの、漢字の輪郭だけは妙に覚えていたから、後は辞書で逆算すれば何を書いていたか知ることができる。
瘡蓋、垢、紅斑、糜爛、腫瘍、膿、癌――
およそ好んで書くとは思えない漢字ばかり。
あいつが何を書いていたか分かっても、余計に疑問が増えるだけだった。
あいつがそんな文字ばかり書いているのは結局何の為なのか。
習字教室の先生はどうしてそんなあいつを止めるでもなく、にこやかに褒めていたのか……。
ただ一つだけ分かったことがある。
それは、俺が凡人だということだ。
あいつは違う場所に最初から立っていて、俺とは全くの別物なのだと。
書道部の一室で目の当たりにした、痣の一文字。
あまりにも洗練されていて、美しく感じた。
同じ人間が書いた文字とは思えない。
そう腑に落ちた途端、すっと胸が楽になって、今まで抱えていたコンプレックスがどうでもよくなった。
清々しい気持ちで書道部を去り、それからはもうあいつの姿を見ることも無くなった。
こうして今語っている話も、酒の席でふとした瞬間に零すような、そんなどうでもいい些末な思い出の一つに過ぎないのだ。
だから、あいつが常に包帯を腕に巻いて登校していたことも、それを誰も不自然に思わなかったことも、深く考えないようにしている。
どうでもいい。どうせ、凡人の俺には理解できない話だろうから。
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