特別なお昼ごはん

ages an

自分にご褒美をあげよう。

 午前11時45分。あなたは足取り軽やかに職場から抜け出した。今月最大の山場を乗り越えた達成感がまだ胸に温かく、今日は待ちに待った給料日だ。


 膨らんだ懐とは裏腹に、あなたの腹は心地よいほどの空虚を訴えている。あなたは雑踏の波に乗り、繁華街へと足を進めた。何か、特別なものが食べたい。今日のあなたには、その資格があるはずだ。


 あなたの目は一軒の海鮮居酒屋の、店先に張り出された一枚の紙に釘付けになる。白地の和紙に、朱色の鮮やかな筆文字が踊る。


「特製いくら丼 二八〇〇円」


 その文字を目で追っただけで、あなたはごくりと喉を鳴らす。脳裏に浮かぶ、紅い宝石の群れ。気づけば、あなたは吸い寄せられるように店の暖簾をくぐっていた。


「いらっしゃいませ!」


 威勢のいい声に迎えられ、カウンターの隅の席へ。あなたはメニューには目もくれず、席につくなり告げる。


「特製いくら丼、一つください」


 程なくして、漆塗りの大きな椀が、あなたの眼前に静かに置かれる。あなたは、思わず息を呑んだ。


 そこにあったのは、丼という名の宝石箱。

 きらきらと、照明を反射して輝く無数の紅い粒。これでもかと器の縁まで敷き詰められ、その下にあるはずの白いご飯は一粒たりとも見えない。


 あなたは震える手で、そっとレンゲを手に取る。山を崩すのが惜しいような、しかし抗いがたい衝動に駆られ、ゆっくりと一杯をすくい上げる。そして、静かに口へと運んだ。


 ――ぷちっ、ぷちっ、ぷち……。


 あなたの口の中で、祝祭が始まる。

 薄い膜をまとった宝石たちが、舌の上で次々と弾け飛ぶ。


 甘じょっぱく、それでいて品の良いタレの風味。追って、凝縮された魚卵の濃厚な旨みと、鼻腔をくすぐる磯の香りが奔流となって溢れ出す。


 一粒一粒に閉じ込められていた生命のエキスが、次から次へとあなたの中に注がれていく。その官能的な液体は、ふっくらと炊かれた白米の粒と出会い、米本来の優しい甘みと混じり合い、渾然一体を成す。


 恍惚とした表情で、あなたはゆっくりとそれを咀嚼する。ごくりと飲み込めば、えもいわれぬ幸福な余韻が、喉から食道を満たしていく。


 もう、理性はない。


 あなたは夢中で、もう一口、また一口と、レンゲを口に運び続ける。止まらない。止める術を知らない。口の中は絶えず至福の洪水で、溺れてしまいそうだ。


 どれほどの時間が経っただろうか。ふと我に返ると、いつの間にか、あれほどひしめき合っていた紅い宝石は一粒残らず消え失せ、椀の底が見えている。


 祭りの後のような、心地よい静寂。


 あなたは空になった丼をそっとテーブルに置き、静かに手を合わせる。そして、満ち足りた吐息と共に、誰に聞かせるともなく呟く。


「……ご馳走様でした」

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