第11話「氷解の時、愛の誓い」
宰相・魏巌の処刑から数日が過ぎ、都は少しずつ落ち着きを取り戻していた。稀代の逆賊が討たれたこと、そして皇帝が自らの口で女官への信頼と愛情を語ったことは、芝居の題材になるほど、人々の間で語り草となっていた。
鈴蘭は、一夜にして「国を救った聖女」として、民衆から敬愛の念を集める存在となった。
しかし、鈴蘭自身は、そんな喧騒から離れた場所で、静かな時間を過ごしていた。蒼焔の計らいで、しばらくの間、公務を離れて休むようにと命じられたのだ。
彼女は、久しぶりに、後宮の片隅にある自分の薬草園で土をいじっていた。ここが、彼女の原点であり、心が最も安らぐ場所だった。
抜かれたり荒らされたりした薬草たちも、新しい芽を出し始めている。植物の生命力の強さに、鈴蘭はいつも勇気づけられた。
ふと、背後に人の気配を感じて、鈴蘭は振り返った。
そこに立っていたのは、護衛も連れず、一人で佇む蒼焔だった。いつもの豪奢な皇帝の衣装ではなく、簡素な平服をまとっている。その姿は、まるで一人の青年のように見えた。
「陛下……。どうして、このような場所に」
鈴蘭は、慌てて立ち上がり、土のついた手をどうしていいか分からずに、後ろに隠した。
「お前が、ここにいると思った」
蒼焔は、穏やかな声で言った。そして、ゆっくりと彼女に歩み寄ると、鈴蘭が隠した手を優しく取った。
「土をいじっていたのか。お前らしいな」
土で汚れた彼女の手を、彼は少しも気にする様子を見せず、自分の大きな手で包み込んだ。その温かさに、鈴蘭の心臓が、とくん、と大きく跳ねた。
「陛下のお体は、もうよろしいのですか。毒の……」
「ああ。お前が調合してくれた解毒薬のおかげで、もうすっかり良い。舌の裏の斑点も消えた」
蒼焔は、そう言って悪戯っぽく笑った。
鈴蘭は、彼のそんな表情を初めて見た。まるで、長年かぶっていた氷の仮面が、完全に溶けてなくなったかのようだった。
「これからは、お前の淹れる薬草茶だけを飲むことにする」
「はい。お任せください」
鈴蘭も、自然に笑みを返した。二人の間には、穏やかで、心地よい空気が流れていた。
しばらく、どちらからともなく、黙って薬草園を眺めていた。
色とりどりの薬草が、夕暮れ前の柔らかい光を浴びて、きらきらと輝いている。
やがて、蒼焔が、静かに口を開いた。
「鈴蘭。父君、白蓮殿のことだが、名誉は回復され、都に近い場所に、新しい薬師の院が与えられることになった。お前の望むなら、いつでも、父君の元へ帰っていい」
その言葉に、鈴蘭は息をのんだ。
父の元へ帰る。それは、彼女がずっと夢見てきたことだった。無実の罪が晴れ、また父と一緒に、薬草に囲まれて暮らす。それ以上の幸せはないはずだった。
なのに、なぜだろう。蒼焔の言葉を聞いた瞬間、胸が、ちくりと痛んだ。
(ここを、離れる……? 陛下のお側を?)
考えただけで、胸にぽっかりと穴が空いたような、寂しい気持ちになった。いつの間にか、この人の側にいることが、自分にとって、何よりも大切なことになっていたのだ。
鈴蘭が、何も答えられずにうつむいていると、蒼焔は、彼女の顔を覗き込むようにして、少し不安げに言った。
「……帰りたく、ないのか?」
その声には、皇帝としての威厳など微塵もなかった。ただ、一人の男としての、切実な響きがあった。
鈴蘭は、ゆっくりと顔を上げた。彼の漆黒の瞳が、まっすぐに自分を見つめている。その瞳の奥にある熱い想いを、もう、見ないふりはできなかった。
「……帰りたく、ありません」
鈴蘭は、小さな、しかしはっきりとした声で言った。
「私は……陛下のお側に、いたいです」
その言葉を聞いた瞬間、蒼焔の顔が、ぱっと輝いた。彼は、感情を抑えきれないといった様子で、鈴蘭の体を強く抱きしめた。
「……そうか」
彼の声は、喜びで震えていた。
「俺もだ、鈴蘭。お前に、どこにも行ってほしくない。ずっと、俺の側にいてほしい」
抱きしめられた腕の中で、鈴蘭は、彼の胸の鼓動が、自分と同じくらい速く鳴っているのを感じていた。
「お前は、俺にとって、どんな薬よりも心を癒やす、たった一輪の花だ」
蒼焔は、彼女の耳元で、囁いた。
「俺の后になってくれ。そして、これからの人生を、俺の隣で、共に生きてほしい」
それは、あまりにも、夢のような言葉だった。
罪人の娘として、後宮の片隅で生きてきた自分が、この国の母に?
鈴蘭の瞳から、大粒の涙が、止めどなくあふれ出た。それは、悲しみの涙ではない。喜びと、幸福に満ちた、温かい涙だった。
「……はい」
彼女は、涙で濡れた声で、しかし、人生で一番の、輝くような笑顔で答えた。
「喜んで……」
夕暮れの薬草園で、二つの影は、いつまでも固く結ばれていた。
氷の皇帝と、物言わぬ毒見係。それぞれの孤独を抱えて生きてきた二人が、ようやく、本当の安らぎと愛を見つけた瞬間だった。
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