第10話「最後の切り札」
広場は、未だ興奮と混乱の渦の中にあった。民衆は、宰相・魏巌の衝撃的な告発を信じ、鈴蘭を罵る声を上げ続けている。だが、玉座に座る蒼焔の表情は、嵐の前の海のように静かだった。
彼は、鈴蘭を見つめていた。その顔は恐怖と絶望で青ざめていたが、瞳の奥には、真実を見抜いた者の強い光が宿っている。蒼焔は、彼女が全てを理解したことを悟った。そして、彼女が自分を裏切るような人間ではないことを、誰よりも信じていた。
「鈴蘭」
蒼焔が、静かに呼びかけると、広場中の注目が彼女に集まった。
「お前は、朕に毒を盛ったのか」
その問いは、まるで最終宣告のように響いた。
鈴蘭は、ごくりと唾を飲み込み、震える足で一歩前に出た。今、この場で、自分の無実を、そして魏巌の大罪を証明しなければならない。
「……いいえ」
鈴蘭の声は、震えてはいたが、凛としていた。
「私は、陛下に毒など盛ってはおりません。ですが、宰相の言葉にも、一つだけ真実がございます。陛下のお体は、確かに、長年にわたり、ごく微量の毒に蝕まれておりました」
その言葉に、民衆が再びどよめいた。
鈴蘭は、構わず続けた。
「その毒とは、『断腸草(だんちょうそう)』の根を細かく砕き、乾燥させたものです。それ自体は、ごく少量であれば人体に影響はありません。しかし、陛下が安眠のために召し上がっていた甘松(かんしょう)と結びつくことで、神経を緩やかに麻痺させる毒へと変化するのです!」
専門的な内容に、民衆は戸惑い、静まり返る。
「断腸草は、皇帝陛下のお食事に、彩りを添える香草として、長年使われてまいりました! それを指示していたのは、誰ですか!」
鈴蘭の鋭い視線が、処刑台の上の魏巌を射抜いた。
魏巌は、一瞬、狼狽の色を見せたが、すぐに不敵な笑みを浮かべた。
「ふん、何を言うかと思えば。そんなものは、こじつけに過ぎん! 証拠でもあるのか!」
「証拠なら、あります!」
鈴蘭は、きっぱりと言い放った。
「断腸草と甘松の毒は、体内に蓄積されると、舌の裏に、ごく小さな紫色の斑点となって現れます。もし、陛下がその毒に侵されているのなら、陛下の舌の裏にも、その斑点があるはずです!」
広場の全ての視線が、玉座の蒼焔に注がれる。
蒼焔は、動じなかった。彼は、ゆっくりと立ち上がると、民衆に見えるように、自らの舌を少しだけ持ち上げ、その裏側を見せた。
侍医長が、蒼焔のそばに駆け寄り、恐る恐るその舌の裏を検分する。そして、驚愕の声を上げた。
「ま、間違いありません! 小さな紫色の斑点が……! これは、まさしく、断腸草と甘松による中毒症状……!」
その瞬間、形勢は完全に逆転した。
魏巌の顔から、血の気が引いていく。まさか、そんな証拠が体に残るなど、計算外だった。
蒼焔は、静かに民衆に向かって語りかけた。
「皆の者、聞いた通りだ。朕は、長年、この宰相・魏巌によって、命を狙われていた。そして、鈴蘭は、何も知らずに、朕の体を癒やそうとしてくれていただけだ。彼女が、朕を毒殺しようなどと考えるはずがない。なぜなら……」
蒼焔は、そこで一度言葉を切り、物見櫓の上の鈴蘭を、優しい目で見つめた。
「彼女は、この世の誰よりも、朕の体を気遣い、その心を癒やしてくれた、唯一人の女だからだ」
皇帝による、あまりにも率直な、愛の告白。
広場は、先ほどとは全く違う、驚きと感動のどよめきに包まれた。民衆の、鈴蘭を見る目が変わっていく。憎悪と侮蔑から、尊敬と、そして温かい眼差しへ。
「そんな……、馬鹿な……」
魏巌は、その場で膝から崩れ落ちた。彼の最後の切り札は、皇帝自身の口から、粉々に打ち砕かれたのだ。もはや、彼に逃げ場はなかった。
「宰相、魏巌。貴様の罪は、もはや明らかだ」
蒼焔は、処刑人に向かって、厳かに命じた。
「刑を、執行せよ」
それが、全ての終わりの合図だった。
鈴蘭は、その瞬間を、まっすぐに見つめることができなかった。ただ、蒼焔が自分に向けてくれた、あの優しい眼差しだけが、まぶたの裏に焼き付いて離れなかった。
国の裏切り者が裁かれ、巨大な陰謀が白日の下に晒された。彩華国は、長い悪夢から、ようやく覚めようとしていた。
そして、後宮の片隅で、誰にも知られずに咲いていた一輪の花は、今、国中の人々の前で、その気高い輝きを放っていた。
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