ノウム注意報

蓮村 遼

ノウム注意報

 久しぶりにまとまった休みが取れた。ここのところ、ずっと激務続きで心身ともにボロボロだ。

 都会の喧騒に揉まれるのは、やはり性には合わない。どこか人気の少ない場所で癒されたい。そう思った。



 職場の同僚の地元が僕の理想の休息地にピッタリだと知ったのは、ちょうど3連休の2日ほど前のことだった。

 僕はすぐに旅行の準備をした。3連休は何がなんでも休息をとろうと思った。



「おい。俺の地元、なんもないけど。一つだけ。『ノウム注意報』には気をつけろよ? 朝のニュースで言ってたら外に出ちゃだめだ。我慢して宿にいろ。そうすれば大丈夫だから」




 桃源郷だった。程よく過疎化していて3連休なのに道を歩いている人はまばら。20時にはほとんどの店が閉まり、車もほとんど通らず静まり返る。

 地元の食堂の飯は旨く、常連と思われるおっちゃん、おばちゃんは温かく僕を迎えてくれた。

 天気も良く、空気も綺麗。

 僕のしぼんだ心に新鮮な空気が入っていく気がした。




『おはようございます! ●月●日月曜日。今日は3連休の最終日ですね! 皆さんいかがお過ごしでしょうか? どこかに遊びに行きましたか?』



 ラジオキャスターの快活な挨拶が聴こえてくる。

 今日はここで過ごす最終日。明日から現実に戻らなければならない。

 肩に重いものがのしかかるのを感じながら、僕は宿の食堂へ足を向けた。

 女将は今日もニコニコして、茶碗に大盛に艶めく白米をよそってくれる。

 鮭、生卵、味付け海苔、おそらく女将が漬けた白菜の漬物……。

 オーソドックスな献立は、滞在中変わることがなかったが、僕にとってかけがえのないご馳走だった。



 僕が漬物を咀嚼していると、食堂のテレビから天気予報が流れてきた。



『本日の天気をお伝えします。●●県○○地方の今日は、朝から『ノウム注意報』が出ています。お住まいの皆さんは十分にお気をつけ下さい。注意報は明日まで解除される見込みはありません』



 女将の動きがピタッと止まった。せかせかと働いていた他の従業員も同様だ。

 ニコニコしていたのがウソのようだ。表情もなく、一同がテレビ画面を注視し石像のようになっている。

 異様な雰囲気の中、朝食を完食し、僕は席を立つ。

 下膳し女将にごちそうさまを告げる。



「お客様」



 女将が能面のような顔で口を開く。



「本日は『ノウム注意報』が出ています。申し訳ございませんが、本日は外出せず、一日宿に留まっていただけますようお願いいたします」



 訳が分からない。僕は今日帰られなければならない。なんなら、すぐにでもチェックアウトしたい。そうでなければ、明日の仕事には間に合わない。



「それは……できませんよ。だって今日帰る予約になってるじゃないですか。旅館側だって、僕がいなくならないと部屋の掃除できなくてご迷惑でしょ?」

「迷惑などという話ではございません。『ノウム注意報』が出ております。外出は決してできません」



 女将の様子は変わらない。従業員の顔を見渡すが、同様に表情を硬め、じっと僕を見つめる。

 のっぴきならない様子を感じ、とりあえず僕は生返事をし部屋に戻った。



 確かに同僚も言っていた。

 濃霧注意報には気をつけろ。

 そんなにこの地域は霧が濃くなるのか?

 僕の地元でもしょっちゅう注意報は出ていたが、そんなに深刻なものはなかった。

 まぁ視界が悪くはなるから、車とか自転車のライトをつけたり、ぶつかられないように車間距離とったりとか?



 しかし、それは個人個人が注意すればよいだけの話だ。

 電波障害なんかも出るのか。スマホが使えなくなるのは困るが、帰りは電車と新幹線だ。飛行機や船なら危ないかもしれないが、陸路なら大丈夫と思う。



 布団の上で考えたうえで、僕は帰宅を決めた。

 問題は旅館から出る時だ。どうしても受付の前を通らねばならない。



 ……、しかし静かだ。旅館には他にも数組止まっているはずだし、過疎地域にしても生活音は聞こえてこないとおかしい。

 静まり返っている。



 僕は荷物を背負い、受付に向かった。

 誰ともすれ違わない。

 受付に着く。誰もいない。僕は宿泊代をカウンターに乗せ、軽く書いたメモを残した。




 あっさりと外に出ることができた。

 3連休の最終日。全く人がいない。

 人どころか、野良猫やスズメをはじめとする小動物もいない。

 いないというか、



 目の前は濃い霧に覆われていた。

 さっき調べた。濃霧注意報が出る時は視程(見通せる距離)が陸上で100m以下だと。

 100mなんてもんじゃない。5mの範囲も見えるだろうか。眼前は霧の壁がそそり立っている。昨日まで視認できていた古き良き街並みも、軒先の鉢植えも、何もかもが霧に飲まれている。



「なんだこれ……」



 スマホを確認する。

 圏外だ。



「……っちゃん! にいちゃん!!」



 どこからか男性の声が聴こえる。



「なんで外にいるんだ! 『ノウム注意報』が出ているだろ!! 早く建物の中に戻れ、まだ間に合う!!」



 かなり切迫した声に事態の重大さを感じ、宿に戻ろうと後ろを振り返った。

 僕の周囲は360°、霧に囲まれていた。

 さっきまで宿のあった方に走るが、走っても走っても辿り着かない。

 完全に方向を見失った。

 さっきまで聴こえていた声も、何も聴こえない。




 背後に、気配を感じた。

 何かが這い寄る、そんな気配。

 人か、他の生物か、それともこの世のものではない、ナニカか。

 霧の中にナニカいる。




 徐々に霧が僕に迫っている。




 忠告は聞くものだ。自己判断はいけない。




 紅赤べにあかの肉壁。黄ばんだ鋭い牙。腐った肉のようなせ返る生臭さが僕の頭を覆うとき、僕は後悔したのだった。


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