第2話「月影城の戸惑い」
意識が浮上した時、最初に感じたのは柔らかなシーツの感触と、ふかふかとした枕の心地よさだった。
ごわごわの藁の上でしか眠ったことのない体にとって、それは経験したことのない贅沢な感覚だった。
ゆっくりと目を開けると、視界に飛び込んできたのは見たこともない豪奢な天蓋だった。繊細な刺繍が施されたカーテンが、ベッドを優雅に囲っている。
慌てて体を起こすと、自分が広々とした部屋にいることに気がついた。磨き上げられた床、壁にかけられた美しい絵画、暖炉の中では静かに炎が揺れている。
そして、自分の体が綺麗に拭われ、滑らかな生地の寝間着に着替えさせられていることにも気づいた。村で着ていた汚れたぼろ布はどこにもない。
手首に残っていた鎖の跡には、丁寧に薬が塗られ、包帯が巻かれていた。
「目が覚めたか」
不意に声をかけられ、びくりと肩が跳ねた。
声のした方を見ると、窓際に置かれた肘掛け椅子に、あの銀狼王──カイが腰掛けていた。
彼は脚を組み、頬杖をつきながら、静かに俺のことを見つめている。昨日と同じ、夜の闇に映える銀の髪と、全てを見透かすような赤い瞳。
「ここは……?」
「俺の城だ。月影城と呼んでいる」
カイはこともなげに答える。
俺は呆然と部屋の中を見回した。城。本でしか読んだことのない場所に、自分がいる。現実感が全くなかった。
「……あの、俺は……」
「言ったはずだ。お前は俺の番になると」
カイは椅子から立ち上がると、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってきた。
ベッドのそばまで来ると、彼はその大きな手で俺の髪を優しく梳いた。
その自然な仕草に、心臓が大きく音を立てる。人にこんな風に触れられたのは、生まれて初めてだった。
「お前のその『聖なる刻印』は、持ち主の魂に膨大な魔力を宿す。だが、同時にそれは不安定で、扱いを誤れば持ち主自身を滅ぼしかねない代物だ」
彼の指が、寝間着越しに左の肩甲骨のあたりをそっとなぞる。
それだけで、また体の奥から奇妙な熱が込み上げてくるのを感じた。
「そして俺は、力が強すぎる。この力は時に俺自身の魂を苦しめ、不安定にさせる。だからこそ、俺の魂を鎮め、力を中和してくれる存在が必要だった。それが、聖なる刻印を持つ『番』だ」
カイの赤い瞳が、熱を帯びて俺を射抜く。
「つまり、お前は俺のために存在し、俺はお前のために存在する。そういう運命なのだ、アキ」
運命。あまりに壮大で、現実離れした言葉に、俺はただ戸惑うばかりだった。
村でずっと忌み嫌われてきたこの痣が、そんな特別な意味を持つなんて、信じられるはずもなかった。
「……信じられ、ません」
「だろうな。だが事実だ。お前がここにいることが何よりの証拠だ」
カイはそう言うと、俺の肩を撫でていた手を離し、ベッドサイドに置かれていた盆を指さした。
そこには、湯気の立つスープと焼きたてのパン、そして新鮮な果物が並べられていた。
「腹が減っているだろう。食べろ」
促されて、俺は恐る恐るスープの入った器を手に取った。
木のスプーンで一口すすると、温かく優しい味が口の中に広がっていく。村では、ろくに火の通っていない芋か、硬くなったパンの切れ端しか与えられなかった。
こんなに美味しいものを食べるのは、生まれて初めてだった。
夢中でスープを飲み、パンを頬張る。その様子を、カイは満足そうに眺めていた。
「そんなにがっついては喉を詰まらせるぞ」
優しい声色に、はっとして動きを止める。
カイの口元に浮かんでいるのは、昨夜見たあざけるような笑みではなく、穏やかな微笑だった。
その表情に、なぜだか胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
食事を終えると、カイは「城の中を案内してやろう」と言った。
断る理由もなく、俺は彼の後について歩き出した。
月影城は、想像を絶するほど広大で美しかった。どこまでも続く長い廊下、天井から吊るされたきらびやかなシャンデリア、壁一面を埋め尽くすほどの蔵書が並んだ書斎。
窓の外には、手入れの行き届いた美しい庭園が広がっていた。
村の小さな、薄汚れた世界しか知らなかった俺にとって、その全てが信じられない光景だった。
「すごい……」
思わず感嘆の声が漏れる。カイは俺の反応を見て、少しだけ得意げな顔をした。
「気に入ったか」
「は、はい……」
「これからは、ここがお前の家だ。好きに使うがいい」
お前の家。その言葉が、胸に深く突き刺さった。
俺には今まで、帰る場所なんてなかった。村の片隅にある、雨風を凌ぐだけの粗末な小屋が、唯一の寝床だった。そこを「家」だと思ったことは一度もない。
カイは俺を連れて、城の一番高い場所にあるバルコニーへと出た。そこからは、彼が治める白夜の森が一望できた。
どこまでも広がる雄大な自然。その中心に、この月影城がそびえ立っている。
「アキ」
隣に立ったカイが、静かに俺の名前を呼んだ。
「お前を虐げてきたあの村だが、先ほど少しばかり『お灸を据えて』おいた」
「え……?」
カイの言葉に、俺は目を見開いた。
彼が言う「お灸を据える」が、穏やかなものではないことくらい、容易に想像がついた。
「俺の番に手を出し、あまつさえ贄として捧げたのだ。それ相応の報いは受けてもらわねばな。まあ、命までは取らん。ただ、二度と愚かな真似はできんだろう」
彼の横顔は、森を見下ろす王者の風格に満ちていた。
その冷徹な物言いに少しだけ恐怖を感じたが、それ以上に、俺のために怒ってくれたという事実が、胸の奥を揺さぶった。
俺のために誰かが何かをしてくれるなんて、考えたこともなかったから。
「……ありがとうございます」
かろうじて絞り出した声は、自分でも驚くほど震えていた。
カイは何も言わず、ただ俺の頭にそっと手を置いた。大きな手のひらから伝わる温かさに、涙が滲みそうになるのを必死でこらえる。
「礼を言う必要はない。俺のものを守るのは当然のことだ」
当たり前のように言い切るカイの言葉が、少しずつ、少しずつ、俺の乾ききった心に染み渡っていく。
贄として捨てられたはずの俺が、銀狼王の「番」として、この美しい城で生きていく。
まだ戸惑いと不安の方が大きいけれど、目の前にいる絶対的な支配者の赤い瞳を見ていると、ほんの少しだけ、未来に光が差したような気がした。
この男のそばにいれば、何かが変わるのかもしれない。
そんな淡い期待が、胸の中に芽生え始めていた。
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