第3話「初めてのぬくもり」
月影城での生活が始まって、数日が過ぎた。
カイは俺に、一人の人間として、いや、それ以上に大切な宝物として接してくれた。
毎日用意される温かい食事、日に三度の湯浴み、そして肌触りの良い清潔な衣服。その一つ一つが、俺にとっては生まれて初めて経験するものばかりだった。
最初のうちは、その過剰なまでの優しさにどう反応していいか分からず、ただおどおどと彼の顔色をうかがうばかりだった。
村での生活で染み付いた恐怖は、そう簡単には消えてくれない。カイが少しでも眉をひそめれば体がこわばり、大きな物音がすればびくりと肩を震わせた。
そんな俺の様子に、カイは何も言わなかった。ただ、俺が怯えるたびに、その赤い瞳に悲しそうな色が浮かぶのを、俺は見ていた。
彼は決して俺を急かしたり、問い詰めたりはせず、ただ静かに、俺が慣れるのを待ってくれているようだった。
ある日の午後、俺は広大な書斎で本の整理を手伝っていた。
カイは読書家らしく、ここにはあらゆる分野の本が天井までぎっしりと並べられている。村では文字の読み書きすらまともに教えてもらえなかった俺にとって、この場所は未知の世界そのものだった。
「アキ、その本は一番上の棚だ」
書斎の主であるカイは、暖炉の前の椅子にゆったりと腰掛け、俺の作業を眺めていた。
言われた通り、俺は重い革張りの本を抱えて、梯子を上ろうとする。だが、痩せ細った腕ではその重さに耐えきれず、バランスを崩してしまった。
「わっ……!」
梯子から滑り落ちる。固い床に叩きつけられることを覚悟して、ぎゅっと目を閉じた。
しかし、体に走ったのは衝撃ではなく、ふわりとした浮遊感と、力強い腕に抱きとめられる感触だった。
「……危ないだろう」
耳元で、呆れたような、それでいて心配そうなカイの声がした。
目を開けると、彼の腕の中にすっぽりと収まった自分がいた。至近距離にあるカイの顔。その整った顔立ちと、血のように赤い瞳に見つめられて、心臓がどきりと音を立てた。
「す、すみません……」
慌てて身じろぎをすると、カイは俺をゆっくりと床に降ろしてくれた。
だが、彼の腕は俺の体を離さない。それどころか、まるで壊れ物を扱うかのように、そっと俺を抱きしめた。
「謝るな。お前が謝ることは何もない」
背中に回された腕に力がこもる。カイの胸板は硬く、そして温かかった。彼の心臓の音が、自分のことのように体に響く。
「……あの、カイさん」
「カイでいい。敬語もいらない」
「……カイ」
名前を呼ぶと、彼は満足そうにうなずき、さらに強く俺を抱きしめた。
「お前はあまりにも自分を卑下しすぎる。村での扱いがそうさせたのだろうが……もうお前を傷つける者は誰もいない。もっと自分を大切にしろ」
諭すような優しい声が、頭上から降ってくる。
自分を大切にする、なんて考えたこともなかった。俺は、誰かに蔑まれ、虐げられるのが当たり前の存在だと思っていたから。
「……でも、俺は、汚れてるから」
ぽつりと、思わず本音がこぼれた。
禍の刻印を持つ、不浄な存在。それが、俺が自分自身に下してきた評価だった。
その言葉を聞いた瞬間、カイの腕の力が一瞬強まった。
「誰がそんなことを言った」
地を這うような低い声。それは、村へ報復を告げた時と同じ、絶対的な支配者の声だった。
俺はびくりと体を震わせる。
それに気づいたカイは、はっとしたように腕の力を緩め、深い溜息をついた。
「……すまない。怖がらせた」
彼は俺の体を少し離すと、両肩を掴んで真っ直ぐに俺の目を見た。
「いいか、アキ。よく聞け。お前は決して汚れてなどいない。お前のその刻印は、お前が特別な存在であることの証だ。誇りこそすれ、恥じることなど何一つない」
真剣な眼差しで告げられる言葉が、氷のように固まっていた俺の心を少しずつ溶かしていくようだった。
「お前を汚れているなどと言う奴がいたら、俺がこの手で八つ裂きにしてやる」
物騒な言葉とは裏腹に、俺の頬を撫でる彼の手つきはどこまでも優しい。
その温度に、胸の奥がきゅうっと締め付けられる。涙が、勝手に溢れてきた。
「なっ……なぜ泣く」
突然泣き出した俺に、カイは明らかにうろたえていた。
普段の威厳に満ちた姿からは想像もつかないその様子が、少しだけおかしくて、俺は涙を流しながらも微かに笑ってしまった。
「……ごめん、なさい。……嬉しくて」
嬉し涙なんて、生まれて初めて流した。
俺のために怒ってくれる人がいる。俺を汚れていないと言ってくれる人がいる。その事実が、たまらなく嬉しかった。
カイはしばらく呆然としていたが、やがて諦めたように小さく笑うと、再び俺をその胸に引き寄せた。
今度はさっきよりもずっと優しい、包み込むような抱擁だった。
「……そうか」
ぽつりと呟かれたその声は、安堵の色を帯びていた。
カイの胸に顔をうずめたまま、俺はしばらく泣き続けた。それは、村で虐げられてきた十数年分の悲しみと孤独を、全て洗い流すような涙だった。
カイは何も言わず、ただ俺の背中をゆっくりと撫で続けてくれた。
この日を境に、俺は少しずつ、カイの前で自然に振る舞えるようになっていった。
彼がくれる温もりは、俺がずっと求め続けていたものなのだと、この時の俺はまだ気づいていなかった。
ただ、この大きな腕の中にいると、不思議と心が安らぐことだけは、確かだった。
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