「禍の刻印」で生贄にされた俺を、最強の銀狼王は「ようやく見つけた、俺の運命の番だ」と過保護なほど愛し尽くす

藤宮かすみ

第1話「贄の青年と銀の王」

 ひやりとした鉄の感触が、手首に食い込んでいた。

 うっそうと茂る木々の隙間から差し込む月明かりが、錆びついた鎖を鈍く照らし出す。

 俺は、白夜の森と呼ばれるこの場所で、一本の巨大な樫の木に繋がれていた。


「これで、村も救われる」


 そう言い残して去っていった村長の背中を、俺はただ黙って見送るしかなかった。


 俺の名前はアキ。物心ついた時から、村の厄介者だった。

 左の肩甲骨にある奇妙な形の痣。「禍の刻印」だと村の誰もが噂し、俺を汚れたものとして扱った。作物が不作になれば俺のせい、誰かが病気になれば俺のせい。全ての災厄は、俺という存在に起因すると信じられていた。

 石を投げられ、罵声を浴びせられる毎日。それでも、息を潜めるように生きてきた。


 だが、ここ数年続いた厳しい干ばつは、村人たちのなけなしの理性を奪い去った。

 彼らは古くからの言い伝えに縋ったのだ。森の奥深くに住むという獣の王「銀狼王」に贄を捧げれば、恵みがもたらされる、と。

 そして、その贄に選ばれたのが俺だった。

 誰にも必要とされず、むしろいない方がいいとさえ思われていた俺は、贄としてこれ以上ないほど最適な存在だったのだろう。

 誰も悲しまない。誰も止めない。それが当たり前だった。


(これで、いいんだ)


 冷たい夜気が肌を刺す。

 死ぬのは怖くない、と言えば嘘になる。けれど、虐げられ続けるだけの人生が終わるなら、それも一つの救いなのかもしれない。

 目を閉じると、これまでの孤独な日々が脳裏をよぎっては消えていく。

 温かい食事も、優しい言葉も、向けられる笑顔も、何一つ知らずに生きてきた。


 その時だった。

 ガサリ、と近くの茂みが大きく揺れた。獣の気配。全身の毛が逆立つのが分かった。

 言い伝えは本当だったのだ。銀狼王が、贄である俺を喰らいにきた。

 ぎゅっと目を固く閉じる。心臓が早鐘のように鳴り響き、喉がカラカラに渇いていく。

 鎖がガチャリと音を立て、俺は無意識に身を強張らせた。


 だが、想像していた衝撃はいつまで経ってもやってこなかった。

 代わりに、静寂を切り裂くように、低く、それでいてよく通る男の声が響いた。


「……人間か。随分とみすぼらしい」


 恐る恐る目を開けると、そこに立っていたのは、月光を背に負う一人の男だった。

 夜の闇に溶けてしまいそうなほど白い肌。腰まで届く流れるような銀の髪が、風に静かに揺れている。血のように赤い瞳が、冷徹な光を宿して俺を射抜いていた。

 人の姿をしている。だが、その圧倒的なまでの存在感と、肌を突き刺すような威圧感は、到底人間のものではなかった。

 狼の耳が、銀髪の間からぴくりと動く。その後ろには、ふさふさとした見事な銀色の尻尾が揺れていた。

 こいつが、銀狼王。


「贄、というわけか。愚かなことだ」


 男──カイは、俺の足元から頭までをゆっくりと眺め、あざけるように鼻を鳴らした。

 その赤い瞳が、俺の痩せた体、着古して汚れた服、そして恐怖に引きつる顔を値踏みするように見つめる。

 あまりの恐怖に声が出ない。ただ、カタカタと震えることしかできなかった。

 カイはゆっくりと俺に歩み寄ってくる。一歩近づくごとに、濃密な獣の匂いと、森の木々が発するような清冽な香りが強くなった。

 彼は俺の目の前で膝をつくと、ためらうことなく俺の汚れた頬に手を伸ばした。


「ひっ……!」


 思わず短い悲鳴が漏れる。びくりと体を震わせた俺に、カイは少しだけ眉をひそめた。


「騒ぐな。……お前、名は」

「……アキ」


 か細く、自分でも驚くほど弱々しい声が出た。


「アキ。その体にあるという呪いの印はどこだ」


 呪いの印。村人たちが「禍の刻印」と呼ぶ、あの痣のことだ。

 どうせこいつも、あれを見て俺を不浄なものとして喰らうのだろう。

 俺はあきらめと共に、震える手で破れた服の襟を少しだけずらし、左の肩を見せた。

 複雑な紋様を描く黒い痣が、月明かりの下に晒される。

 それを見た瞬間、カイの赤い瞳がカッと見開かれた。彼が俺の頬に添えていた手を離し、今度はその痣に直接指を這わせる。

 ぞくり、と背筋にこれまで感じたことのない感覚が走った。


「これは……」


 カイの指が痣の上をなぞるたびに、体の奥底から何かが疼くような、奇妙な熱が生まれる。

 それは不快なものではなく、むしろ心地よささえ感じさせる不思議な感覚だった。


「呪いだと? 笑わせる。これを呪いと呼ぶとは、あの村の人間どもは節穴か」


 カイは低い声でつぶやくと、ふ、と笑みを漏らした。

 それは、獲物を見つけた捕食者のような、どう猛で美しい笑みだった。


「これは『聖なる刻印』だ。膨大な魔力を秘めた、極めて希少な魂の証。……長年探し続けていた。まさか、こんな形で見つかるとはな」


 聖なる、刻印……?

 何を言われているのか、全く理解が追いつかない。俺を苦しめ続けてきたこの痣が、呪いではない? それどころか、価値のあるものだというのか。

 呆然とする俺の顎を、カイの指がくいと持ち上げた。強制的に視線を合わせさせられ、その血のように赤い瞳に吸い込まれそうになる。


「アキ、と言ったな。お前はもはや贄ではない」


 彼の指が、俺の唇をゆっくりと、慈しむように撫でた。


「お前は、この俺の『番(つがい)』となる。俺の魂を安定させるための、唯一無二の存在だ」


 有無を言わさぬ、絶対的な支配者の宣言。

 カイはそう言い放つと、俺を繋いでいた古びた鎖に手をかけた。

 次の瞬間、いともたやすく、ぶちりと音を立てて鉄の鎖が引きちぎられる。

 解放された俺の体は、力の抜けた人形のようにぐらりと傾いた。

 それを、カイの太い腕が力強く、しかし優しく抱きとめる。


「ようこそ、アキ。俺の城へ」


 囁きと共に、視界がふわりと浮き上がった。

 カイはいともたやすく俺を横抱きにすると、闇の中を歩き始める。

 訳が分からないまま、俺は彼の胸に顔をうずめるしかなかった。トクン、トクンと聞こえる力強い心臓の音。これまで感じたことのない誰かの体温。

 それが、俺の意識を闇の底へと沈めていった。


 贄として捧げられたはずの俺の運命が、この夜、大きく動き始めたことを、まだ俺は知らなかった。

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