第1話

朝の光が障子を透し、台所の湯気に細い筋を描いた。並んだ皿は二つだけ、ひとつは母の分、もうひとつは私の分だ。湯気の裂け目から、いつもの声が滑り落ちる。

「ったく、なんでこんな……」

美凪とはもう会えない。父側の親族とは、両親の離婚後は会うことはなかった。

母の視線はほとんど皿と家事に還り、言葉はそこで止まる。二人だけの家の沈黙が、椅子の並び方と器の数で私の居場所を示していた。

私はゆっくり箸を取り、掌の鈴を確かめる。冷えた金属の感触が、小さな海の記憶を胸に呼び戻した。


あの海での出来事は、もう数年も前だ。

母には言っていない、あの時の祖母の行動と、助けてくれたお兄さんのこと。

つらい記憶ではあるけれど、お兄さんと、お兄さんがくれた鈴のおかげで、今は呑み込めている。


居間の棚は、いつの間にか誰かの好みに従って整えられていた。新品のガラス細工が光を拾い、磨かれた腕時計が朝の角度で鋭く反射する。小さな陶器の置物は埃ひとつなく佇み、並ぶものたちはすべて「整っている」ことを誇示している。

そこへ触れ入るように、私の鈴は淡い銀色で少し曇り、表面に小さな線傷が刻まれていた。軽く指を当てると、ガラスがすぐに鋭い音を返すのに対し、鈴は低く長く余韻を残す。その余韻が消えると、部屋はまた整然と澄んだ無関心に戻った。

「それ、気を付けてよ。落ちたらすぐ壊れちゃうんだから」

ガラス細工に触れたことを軽く咎められた。


母は、最近帰りが遅い。仕事は夕方五時までのはずなのに、夜の八時九時まで帰ってこない。

あまりにも遅いから、ご飯も食べずに寝てしまうときがある。

そんな時の翌朝は、いつもより少しだけ、母が優しい。


学校で友達に話すと、「彼氏でもできたんじゃない?」なんて返ってきた。

その友達は、もっとずっと小さい時に両親は離婚しているらしく、去年、母親の再婚により苗字が変わった子だ。

曰く、再婚の話が出る少し前から、彼女の母親もそんな感じだったのだそうだ。


母は、離婚の後からお金が無いみたいだった。

学校からの集金のお願いも、渡すと急に機嫌が悪くなってしまう。

だから、新しいお父さんができたら、少しは母も心安らかに過ごせるのかもしれない。


なんて思っていたら、ある土曜に母に連れ出され、男性を紹介された。

「新しいお父さん」なのだそうで、これから一緒に暮らすらしい。


お仕事が忙しい人みたいで、家に帰るのは遅いけれど、お休みの日は遊びに連れて行ってくれたり、服もおもちゃも、普通に買ってくれる。

当たり前、みたいな態度で買ってくれるし、私にも母にも優しい。

数ヶ月が経って、私の苗字が、新しいお父さんの苗字になった。



養父は初婚で、母は養父がいないときに私に文句を言った。

「あんたのせいで、あの人の親には相当怒鳴られたわ。初めての結婚でこんな大きい子供がいる女となんて、ですって。

あんたさえいなけりゃ、普通に幸せな結婚ができたのに」

いたたまれなくて、もやもやした気持ちの中、元祖母の声が脳裏によぎる。

「あんたは生まれてきちゃいけなかったのにねぇ。のうのうと生きて飯を食って、厚かましい……」

「あんたのせいで、パパもママもみーんな不幸になったんだよ」

私は望まれて生まれた子供ではなかったらしいと、幼心にその言葉は呪いのように染み付いて、母の文句にも、ごめんなさい、と呟くのが精いっぱいだった。


まだ小学生で、幼い私は気づくことはできなかった。

私の存在に文句を言っておきながら、私が謝ると、母は少しばつの悪そうな顔をする。



二年ほど、三人での暮らしが続いただろうか。

母が妊娠した。

私は、きょうだいができることに喜びはしたが、笑顔の裏には不安があった。

養父の実子であるきょうだいが生まれたら。私は邪魔ではないだろうか。

もしかしたら捨てられるかもしれない、他の家の子になれって追い出されてしまうかも、不安はどんどん悪い想像だけを膨らませて、精神を蝕む。

母に泣きつくことは無かった。

できなかった。

昔から、甘えたり、泣いたりをすると、母は怒った。面倒そうにため息をついたり、怒鳴ったり、妊娠中で大変な母に、そんな負担をかけてはいけない。

布団の中で、鈴を握りしめて、声を殺して泣く夜ばかりを過ごした。


悲しい、寂しい、つらい、感情の名前は知っていても、解消する方法がわからなかった。

家庭科の時間、針で指をついた小さな怪我。

強く押すと、小さな傷でもちゃんと痛みを発する。

痛いことは嫌だけど、嫌なことを我慢しているから、家にいてもちょっとは許される、なんて意味の分からない思考で、わざと自分を針で刺すことが増えていった。

裁縫が苦手なふりをしていれば、先生にも親にも、怒られない。

下手だから練習する、って言えば、家でも針を手にできた。


そうして時が経ち、弟が生まれた。


初めて見る赤ん坊は可愛くて、お世話のお手伝いも全然嫌では無かったけど、無条件に母に抱かれ、無条件に優しくされる弟が、うらやましかった。


望まれて生まれてきた子供、とは、弟のような子のことなのだろう。

自分が赤子の頃なんて覚えていないし、養父の手前聞けないけれど、きっとあんなには優しくしてはもらえなかったのだろう。


弟は”大雅”と名付けられ、快活で子供らしい子供になった。



だから、母は私に言う。

「あんたは全然子供らしくなくて、可愛くないわね。」

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