鈴鳴る海辺で、待っている
巳明 狐白
序章
あの日は、波の匂いがいつもより少しだけ甘かった。潮の混じった風が髪をぬらし、砂の目に小さな星が瞬いている。私は膝まで濡れたまま、浅い水たまりを蹴っていた。貝殻を集めるつもりはなかった。ただ、手のひらに何かを入れておきたかった。家ではいつも空だったから。
その日の海は、祖母と従姉妹の美凪が一緒に来ていた。美凪は私と同い年で、幼い頃から一番の遊び相手だった。彼女はきらきらを集めるのが上手で、いつも私に小さな貝殻やきれいな石を分けてくれた。私たちは笑い声を重ねて遊んでいたが、祖母は美凪にだけ頻りに目をかけ、私にはほとんど見向きもしない。祖母が差し出す笑顔とその手は、いつも美凪の方へ向いていた。私はそれを不思議だとは思いつつ、同時にそれを当たり前だとも受け入れていた。
遊んでいる最中、砂が突然柔らかくなり、足がぐっと深く沈んだ。膝裏に冷たい感触が走り、体が砂に引き込まれる。叫んでも声は波に掻き消され、手は砂に絡め取られるように重くなった。振り向くと、祖母は日傘の下で小さく眉を寄せたが、立ち上がることはなかった。私と目が合った瞬間の祖母の瞳は真冬の空のように冷たく、救いを期待してはいけないと私に告げた。
美凪はすぐに私の近くに駆け寄ろうとしたが、祖母は手で彼女を制した。美凪は不服そうに眉をひそめ、でも祖母の命令には逆らえない顔をした。彼女は私の手を握ろうと一歩踏み出しただけで、祖母に押し戻されるようにして、黙ってそばに立っていた。美凪の目に映る戸惑いと悲しさが胸を締めつける。
水はあっという間に頭まで上がり、呼吸が薄くなる。世界が白く小さくなり、塩の味が喉に染みる。
そのとき、誰かの手が私の腕を掴んだ。指先は冷たくなく、確かな温度があった。咽せながら顔を上げると、白い襟のシャツが夕陽に淡く光っていた。日焼けしていない肌、古い時間の匂いを含んだ人。私は近所の人だと思った。怖くはなく、ただ安堵した。
「大丈夫か」
その声は穏やかで、砂に吸われたり海に消えたりしないで、私の耳にすっと届いた。男は私の髪を軽く払うと、私の掌にそっと小さなものを置いた。
薄い銀色の鈴だ。紐は藍に近い紺色で、表面に細かな傷がある。鳴らせば高く澄んだ音が立ち、砂の上を滑るように広がって、私の胸に灯をともした。
「鳴らしてごらん。僕に届くよ」
そのとき、私はまだ言葉の意味を測れなかった。だが、人が自分のために物をくれる瞬間がこんなにも世界を変えるのだと知った。
祖母は男を一瞥だけして、すぐに日傘の影へ引き下がった。美凪は私の肩を握って震えていたが、祖母に従い離れていった。私は「ありがとう」としか言えなかった。男はにっこり笑い、振り返らずに砂浜の奥へ消えていく、その背中の歩き方は、近所の誰とも違って、どこか時の幅がずれているように見えた。
彼の笑顔は親しげで、年の離れた兄のようにも感じた。
家に帰ると、夕飯の席で祖母は美凪だけを褒め、私には冷たい視線を向けた。母はその場で小さく俯き、何も言わないままだった。
夜、指先で鈴に触れながら眠ると、美凪の小さな手の温度と、祖母の冷たい視線と、白い襟の背中が混ざって浮かんだ。美凪にだけ向けられる祖母の優遇は、私たちが同じ年で仲が良いという事実を甘く褪せさせる。ふとしたときに、美凪の笑顔が私を覚えていてくれる小さな救いだと知ると、胸が少しだけ軽くなるのを感じた。
祖母に見捨てられた日のことを境に、私は「要らない子」を自覚した。内側に全てを抱えて黙る習慣を身につけ、家庭の波風を立てないようにとずっと黙っている。
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