廃棄された世界

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《剣花のカノンに通達。形而上の空にて反応を検知。懐古の造園にて待機を命じる》



​ 頭に響く人工音声の内容に少女は歩みを止める。少女──カノンは十字架の剣を地面に突き刺すと、静かに腰を下ろした。その動作は、訓練された兵士が休息を取るかのように、淀みなく、一切の無駄がない。



​ カノンがいる土地は懐古の造園と呼ばれる、人工的に旧時代を再現した無人都市である。世界が機械で溢れた時代に牧歌的な原風景を残す目的で造られたが、そこには誰も住まなかったという。錆びついた風車が虚しく回るだけの、忘れ去られた過去の残骸。


 

 カノンは丸太で造られた家の軒下に腰を下ろしていた。掌で木目に触れるも、伝わってくるのは金属の冷たさであり、カノンは瞑目した。その瞳の奥では、聖環が、周囲の環境データをただ静かに収集し続けていた。



​『秘蹟会より通達。事象の境界を検知。悪魔の顕現に備えよ』



​ 「神の声」にカノンは立ち上がる。自身の感覚でも悪魔の気配を探りつつ、剣を握った。その指先には、常に最適化された戦闘態勢が刻まれている。


 ──近い。感覚では感じ取るも、詳細な場所は分からない。厳密に言えば、近すぎるほど知覚は乱される。人間では知覚できないはずのモノを知覚しようとする行為によって、脳にエラーが起こってしまう。稀に認知してしまう人間がいるが、カノンの知る限り碌な末路を辿った者はいない。それは、人間という存在が持つ限界であり、カノン自身がその限界を超越した存在であることの証明でもあった。



​ カノンは白い外套の下に着込んだリブセーターの襟に触れる。それが癖だった。耐え難い過去の傷が脳裏を過ぎった時、いつもそうしていた。だが、その仕草にも、感情的な動揺は一切伴わない。プログラムされた動作のように、淡々と行われていた。



 ​十字架を背負う事の意味を忘れた事は無い。



 少女が視界を上げた時、目の前の空間にはいつの間にか黒い穴があった。しかし、それが〈悪魔〉である事をすぐに理解する。黒い穴に見えたそれは宙に浮いた漆黒の球体であり、事象の境界を越え、現実に発生した特異な現象──羽化する前の悪魔である。空間を歪ませ、存在しないはずの闇が、そこにぽっかりと口を開けていた。



 ​カノンの頭上に浮遊する〈聖環〉が、微かなノイズを立てる。感情の抑制が正常に作動している証だ。その瞳――薄紫の奥には、いかなる焦燥も恐怖も映らない。ただ、悪魔の解析に集中する、機械的な光が宿るのみ。



​ 対悪魔の基本は羽化する前に否定・・する事だ。カノンは既に十字架剣を握り、黒球の前に立っていた。


​ 羽化する前の悪魔は単なる現象でしかない。だが、現実とは違うルールを備え、時として羽化する前の悪魔が甚大な被害をもたらす事がある。白い都市もかつては機械時代の全盛だった。けれど羽化する前の悪魔のたった一体によって、容易に崩壊させられたのだ。それは、世界の脆弱さと、悪魔の根源的な脅威を雄弁に物語っていた。



​「『汝の罪は罪であること、主の意志は汝を否定する』」



​ カノンは呟いて十字架剣を黒球へと向ける。悪魔を否定する為の聖詠カノン。少女と同じ名で称される文言は奇跡を起こす為の土台にして、神の意志の照臨を認可された執行者の証左でもある。その声には、信仰心も、憎悪も、何の感情も含まれておらず、ただ、定められたプロトコルを遂行する音声記録のようだった。



​ カノンが剣を振り下ろし、黒球を一閃する。事象の否定を纏った刃はあっけなく悪魔を両断し、黒球は崩壊を始める。空間が剥がれ落ちる様に、欠片となってパラパラと地面に落ちると粒子となって霧散した。存在そのものが「無」に帰したかのような、完璧な消滅。



​《悪魔の消失を確認。秘蹟会への帰還を推奨》



​ カノンは悪魔の消え去った空間を見つめ、十字架剣を地面へと突き刺す。想定よりも早く指令を達成し、カノンは虚無を感じていた。感情の揺らぎではない。ただ、任務遂行のプロセスにおける、無機質な評価だった。



​ その時、異変は起きた。



​ 悪魔が霧散した空間から、微かに残された黒い粒子が、まるで意思を持つかのように、カノンの頭上に浮遊する〈聖環〉へと引き寄せられていく。それは、石灰質の白い粒子とは明らかに異なる、漆黒の、しかし透明感のある、微細な輝きを放っていた。



​《警告:未識別の精神紋様を検知。システムへの取り込みを開始……失敗……再試行……》



​ 聖環から、これまでにはない警告音が鳴り響く。しかし、それは感情抑制のノイズとは異なり、システム内部で異常なデータ処理が行われていることを示すものだった。カノンの瞳――薄紫の光は、その瞬間、一瞬だけ、微かに揺らいだ。



​ 漆黒の粒子は、聖環の表面に吸い込まれるように消えていく。それは、聖環内部に新たなデータが書き込まれていくかのような光景だった。


 聖環のシステムは、この「未知の精神紋様」を悪魔の残滓として排除するのではなく、内部に取り込み、解析しようとしているかのようだった。



​《……システムへの取り込み、完了。構造解析を開始します。警告:この精神紋様は、既存の悪魔分類に合致しません。特殊な形而下魔法の痕跡を確認。分析続行──》



​ 聖環から発せられる人工音声は、以前よりも微かに、しかし確実に、感情の起伏めいた「好奇心」のような響きを帯びていた。カノンは、自らの頭上で起こっている異変に、僅かな「違和感」を覚える。


 それは、これまで自身の思考と寸分違わぬはずだった聖環の反応に、微かな「ずれ」が生じたことを示すものだった。



(思考が乱れる──何が起きたの?)



​ カノンは周囲を見回し、他の悪魔の気配を探るも今は何も感じられなかった。懐古の造園を改めて観察する。旧時代。機械の時代よりも前の時代の姿。それはカノンからすれば、神の声も意志も介在しない暗黒時代があったなど信じられない事だ。


​ 悪魔が根を下ろした土地はルールを失う。即ち人が否定された場所になる。現在、地球上の六割が悪魔によって理を失った場所となっているのだと、カノンは教えられている。カノンの使命は悪魔に根を下ろさせない事であり、同時に可能な限りの精神紋様を回収する事。


​ この造園が人類の領域にある事が、まだこの世界は人間のモノだと証明しているかの様だとカノンは感じる。とは言え、残る人類の多くは地上を捨て宇宙てんごくへと逃げたという。



​「捨てられた世界……残された罪──まるで私達の様だね」



​ カノンは十字架の剣を引き摺り、歩き出す。少女の秘蹟会への帰還は一万と三千百四十時間ぶりになる。その長い時間に、カノンは幾度となく同じ思考を繰り返してきた。



​〈極地〉と呼ばれる悪魔の理が刻まれた大地を抜ければ、人類領域へと続く道なき道が続いていた。

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