偽りの帰還


 世界は〈第三紀〉を数える。空は常に重い鉛色に淀み、大地を覆う都市の残骸は、〈秘蹟会〉が敷く絶対的な戒律のもとに、冷酷なまでに統制されていた。



 彼らは主張する――人類は〈大罪〉に汚染されており、「救済」とは大罪の根絶と、それに伴う感情の抑制によってのみ達成されると。



​〈秘蹟会〉は、この教義を執行するための神聖な権威であり、彼らが管理する全てのものは、「贖罪」という名の秩序で覆い尽くされていた。



 都市の壁には、「罪は赦されない。救済は戒律の中にのみ存在する」という標語が、消えることのない血のように刻まれている。



 ​そして、この冷徹な秩序の最も完璧な具現者が、〈剣花のカノン〉だった。



 ⚀



 荒涼とした広大な大地に光の柱が天へと昇っている。カノンはその薄紫ライラックの瞳で遠くに見える都市・・を見据えた。



 巨大な天を突かんとする杭こそ、あれがカノンの所属する〈ケラスス秘蹟会〉そのものである。



 古くは天の梯子と呼ばれていたが、現在はその鉄の柱の基礎部分とその周辺に構造物が築かれ、中心へと向かうにつれ先細っていく円錐状のタワーがケラスス秘蹟会の本部となっている。



 白で統一された都市は、土と錆と廃墟の色に塗れたこの荒涼とした大地において、そこだけが〈悪魔〉に滅ぼされることの無い聖域なのだと謳っているかのようだった。


 

 砂塵が舞い、赤茶けた土とひび割れた岩盤が剥き出しになった生命の存在しない不毛な大地がカノンの旅の終わりを迎えている。



 ⚁



 〈ケラスス秘蹟会〉本部。


 軌道エレベーターを核とする塔の、地下深く。ここは〈罪人〉たちが〈荒廃の環〉から戻り、回収した〈精神紋様〉を提出し、そして「汚染の監査」を受けるための部屋だった。


 床は白い合金で覆われ、空間全体が〈浄化の奇跡〉による冷たい光に満たされている。


 

​ 一年に及ぶ〈巡礼〉を終えたカノンは、その白い部屋の無機質な中央に立っていた。


 白いローブの裾は激戦の跡を留めて裂け、巨大な黒剣を床に立てかけるその姿は、疲弊というよりも、むしろ極限まで研ぎ澄まされた刃のようだった。


 彼女の頭上の〈聖環〉は、任務完了の信号を静かに発信している。


 ​部屋の隅には、〈秘蹟会〉の技術者が並び、彼女の〈聖環〉から流れ出る汚染データを、無言で解析している。その空気は、英雄の帰還ではなく、危険物質の回収を思わせる、張り詰めたものだった。


​「〈剣花〉、提出された紋様は規定数を確認した。」



 ​中央の監査官が、感情のない声で告げる。しかし、その声は微かに不満を含んでいた。



​「だが、生体反応データに 『未特定過負荷』 のノイズがある。即座に、 最終的な身体監査 を開始する。」



 ​カノンの薄紫の瞳が、わずかに動いた。彼女は、〈巡礼〉の過程で隠匿した「未知の紋様の核」が、〈聖環〉を通じて発する微細な抵抗を知っている。


 無論、意図して隠した訳では無い。隠そうとしても秘蹟会の監査を受け隠し通せるともカノンは思っていない。


 ​カノンの巨大な黒剣は、床に立てかけられたまま動かない。しかし、部屋の隅にある解析装置が、甲高く、不快な電子音を立て始めた。


​ カノンの無表情の仮面の下で、隠匿された紋様の核が、脈動を始めた。同時に、カノンは自身の異常を理解した。



「私が汚染されている可能性が高い」カノンは知己の人物を思い浮かべ、その名呼ぶ。



「ルクスを呼んで」


 カノンの口にした名前を聞いた監査官の一人が部屋から出ていく。そして、数分が経ち部屋に入ってきたのはカノンよりも華奢で弱々しい風貌の黒髪の少女だった。




 周囲を緊張した面持ちで見回すルクスはカノンとは異なった意匠の白いローブとマントを纏い、その出で立ちは清廉さを装うが、彼女の佇まいから深い不安と絶え間ない緊張が感じ取れる。


「ルクス」カノンが少女へと呼びかける。


「か、カノン…!」


 カノンの声に、ルクスの青い瞳は、カノンの完璧な帰還を見て、安堵と不安に揺れる。彼女の頭上の歪んだ聖環が、その制御しきれない感情をノイズとして漏らしていた。



 ルクスの足がカノンへと向かって踏み出そうとして、無愛想な監査官がその手でルクスの行く手を遮る。



「汚染している可能性がある。対象の聖環からノイズを強制排除しろ。我々としてもここで〈剣花〉を失うのは得策ではない」


 

 ルクスの歪んだ聖環が激しくノイズを立てた。ルクスの動揺は顕著になる。しかし、カノンを見据えると彼女の青い瞳から弱さが消えた。



「『罪は赦されず、故に光を。清浄を誓わん』」



 詠唱と共に、ルクスの歪んだ聖環から無色透明な光の膜が放たれ、室内を満たした。その光は、ルクスが扱う〈奇跡〉であり、攻撃性は一切ない。ただ、〈聖環〉に蓄積された汚染の原因を捉え、引き抜く。



 端的に言えば、《強制的に清浄な状態へと戻す》能力だ。



 ​人肌ほどの温かさを持った柔らかい光がカノンの肌に触れ、彼女の全身を覆った。カノンは静かに瞑目する。



​(以前は、ルクスの奇跡に助けられた)



 ​カノンの無感情な思考が、過去を回想する。〈巡礼〉の過程で負った軽微な〈概念残滓〉は、いつもルクスの清浄化によって容易に除去されてきた。しかし──



​(今は──試されている)  



 ​カノンは、開かぬ瞳の奥で、室内に満ちる監査官たちの張り詰めた空気を感じ取っていた。


 汚染とは、すなわち〈堕天〉を意味する。それは〈秘蹟会〉の戒律に反した、悪魔への変質。もしその兆候が検知されれば、もはやここには居られない。



 ​カノンは自身の状況を、まるで他者の事であるかのように冷静に受け入れていた。それが、完成された執行者の精神であり、その在りようが彼女の無表情にはっきりと表れていた。



 ​一方、ルクスの表情は苦難に満ちていた。

​ルクスの〈清浄化の奇跡〉がカノンを包み込む。彼女の青い瞳は、カノンの聖環から流れる概念データを必死に読み取っていた。


​(ない……!)


 ​ルクスは、戦慄した。カノンの中に宿った汚染──という異物。それは、〈悪魔〉の残滓とも、通常の〈精神紋様〉とも全く異なる性質を持っていた。ルクスが過去に経験したどんな汚染とも違う、未知の法則で構成されている。



 ​取り除こうにも、ルクスの〈浄化〉は、その異質な核に適用されず、ただ表面的な塵を払うかのように素通りするだけだった。



​(こんなものが、どうして……カノンの中に……!)



 ​ルクスは不安を募らせていた。彼女の歪んだ聖環は、その感情の動揺に呼応して、ノイズを激しく増大させていた。



​「ルクス、状況を報告せよ。異常か?」



 ​監査官の冷たい声が、ルクスの動揺をさらに煽る。ルクスは唇を噛みしめ、カノンの無表情な顔を見上げた。その瞳の奥に、師の悲劇的な末路と、自身の中に芽生える「堕天」の予兆がフラッシュバックする。



​(カノンが堕天……? そんなことは、許されない……!)



 ​ルクスの脳裏で、依存と恐怖、そして歪んだ「救済」への渇望が、混沌とした旋律を奏で始める。


 彼女の〈清浄化〉の奇跡は、カノンの表面的な状態を一時的に偽装することしかできなかったが、それはルクスにとって、カノンを「正しい」と証明するための、最後の選択だった。


 ​ルクスは震える声で、しかし強い決意を秘めて、報告した。



​「報告します。……カノンの聖環は、正常です。一切の過負荷は認められません」



 ​その言葉は、ルクスの良心への裏切りであり、カノンへの歪んだ愛の証明だった。カノンの無表情は、依然として動かない。


(──ルクス)


 カノンは静かに瞼を持ち上げる。そして、怯えた表情をするルクスを見据えた。


 ルクスは見上げる様にカノンを見て歪んだ笑みを浮かべていた。



「か、カノン……無事に帰ってきて良かった……」

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