崩壊のカノン-The Faceless Sinner-
ガリアンデル
脈動する旋律
石灰質の建造物が立ち並ぶ都市がある。あらゆる建造物が白く染まり、渇いた風が吹いている。
風に乗って白い粒子が空を舞い、滞留した粒子が天を塞ぎ薄暗い影を都市へと落とす。それは、世界の傷跡をそのまま凍結させたかのような、静止した風景だった。
この都市はかつては栄華を誇った先進都市であった。百万を超える人が集い、汎ゆる物が様々な国へと流れていき、同様に何もかもが集う場所であった。だが、今は違う。
人の気配は消え失せ、残されたのは、時間に取り残された廃墟だけ。
石灰質の高層ビルが僅かに揺らいだ。その根元で激しい衝撃が空気を震わせた。崩れ落ちる砂の城のように、都市の終わりを告げる前触れだった。
⚀
《〈悪魔〉の構造変化を感知。対象の精神紋様の脅威度が更新》
肉声ではない、冷たい人工音声が、カノンの頭上に浮遊する〈聖環〉から響く。
聞き慣れた台詞に少女は反応を示さず、ただ目の前にある異質な存在を見据えていた。その視線は、まるで機械のレンズが焦点を合わせるかのように、一点に固定されていた。
都市に溶け込む様な白い少女は、純白の髪を風に流し、体格に不釣り合いな鉄剣を傍らへと突き刺した。十字架を模した黒い鉄の剣は磔台の様に見え、神聖さとはかけ離れた空気を放ち、少女が聖職者ではない事を暗に物語り、裁きと罰を体現する無機質な偶像の様である。
少女──カノンはその出で立ちに聖職者の様な神聖さと、凍えるような無機質な鉄の冷たさを纏いながら視線を動かした。
カノンの肌は日の光を知らないかのような透き通る白磁で、肩口で切り揃えられた銀白色の短い髪が、その白い肌と対照を成す。まるで、精巧に作られた人形のような、完璧なまでに冷徹な美しさだった。
瞳は
身に纏うのは、純白のフード付きローブ。これは教会の祭服を思わせるが、裾は不揃いに裂け、内側には黒い十字架の意匠が随所に散りばめられている。ローブの脇腹や、マントのように伸びた背面には、金属製の留め具や黒い革紐が施されており、その姿は聖なる拘束具を纏っているかのようだ。
そして、最も異彩を放つのは、カノンが支える巨大な漆黒の剣である。それはカノンの身の丈をゆうに超える大剣であり、分厚い鉄板と重々しい十字架の意匠が融合した「鉄の十字架」だ。華奢な容姿からは想像もつかないこの〈奇跡〉の触媒を携える姿は、カノンが苛烈な戦いと自らの罪の重さを背負う戦闘者であることを雄弁に物語っている。
だが、その表情に苦痛の色はなく、ただ任務を遂行する機械のような冷徹さだけがあった。
異質な存在は不定形の姿から、徐々に姿形をはっきりと作り出していく。黒い泥が盛り上がり、形を成していくかのような、おぞましい光景を前にカノンは立つ。
「〈形象化〉……まだ羽化前」
カノンが小さく呟く。その声は、感情の抑揚を一切含まない、ただのデータ読み上げのようだった。
白い都市に浮かぶ真っ黒な球体から腕が生え、今まさに歪な生命が誕生しようとしている。
カノンは傍らの十字架剣を掴み前へと駆け出した。その動作には、迷いや躊躇の欠片もなく、完璧に最適化された思考をなぞっている。
瞬間だった。
飛び出したカノンは既に黒い球体に対して剣を振り上げていた。カノンの振るった刃が届く直前、黒い球体がドクンと不気味に跳ね、黒い棘の生えた左腕が球体を突き破るように飛び出して刃を弾いた。
鈍い金属音が、荒廃した都市に虚しく響き渡る。
対してカノンは後方へと跳び下がり、様子を見ていた。その退避行動もまた、予測された反撃に対する最適な回避行動だった。
黒球が崩壊を始める。両腕、足が揃い、パラパラと球体を構築していた黒い膜が剥がれ落ちていく。そして、頭部が完全に顕れ、それは成った。漆黒の皮膚を剥ぎ取り、新生する蝶のように、悪魔はその禍々しい姿を現した。
「悪魔が羽化した」
カノンは冷静に事実を認識する。その言葉に、驚きも嫌悪も含まれていない。大きな黒い肢体に身体の一部に角を有する存在。それが崩壊思念体、通称〈悪魔〉と呼ばれる事象だ。
悪魔は感情の無い瞳でカノンを捉えた。生物とは違う異質なデザイン。何のために存在しているのか不明だが、ただ一つ分かる事は悪魔が人間を害する存在ということだけ。
悪魔の存在は、カノンにとって、ただ「排除すべき対象」という情報でしかなかった。
カノンと悪魔が向かい合わせに立つ。白と黒。対照的な二つの姿は、光と闇、聖と邪の様である。だが、その「聖」なる側に立つ少女の瞳には、一切の感情の光は宿っていなかった。
次の瞬間、白と黒が衝突した。刹那の静寂の後、乾いた爆音が響き渡る。
悪魔が突き出した拳をカノンは剣の腹で受け止める。カノンの体が浮き上がり、後方へと弾き飛ばされた。まるで石ころが蹴り飛ばされるかのように、彼女の体は宙を舞う。
悪魔はそれを追って地面を蹴った。大地が震え、石灰質の粒子が宙に舞い上がる。
悪魔がカノンに追いついて少女の眼前へと飛び上がる。そして、左腕の無数の棘をカノンへと向けて構えた。咄嗟にカノンは剣を盾の様にして姿を隠した。防衛反応もまた、聖環の最適化によって瞬時に選択された最善手だった。次の瞬間、無数の棘が散弾のように射出され、衝撃がカノンを襲い再び宙へと弾かれる。
悪魔の一方的な攻撃に対してカノンは防御を強いられている。人間に対する高い攻撃性と身体能力。何よりも、悪魔が悪魔たる所以である〈形而下魔法〉と呼ばれる特殊な力は、時として甚大な被害をもたらす。
故にカノンは考察していた。この悪魔がどれほどの脅威を有しているのかを。少女の中で結論は出ていた。その思考プロセスは、感情の混じらない、純粋な演算そのものだった。
「〈神の声〉の言う通りだった。これより悪魔狩りを開始する」
カノンは向かってくる悪魔の姿を捉え、空中で姿勢を整える。剣の柄を握り直して、刃を悪魔へと向けた。カノンの体躯よりも大きな十字架の剣は、対悪魔用に製造された武具だった。剣に備えられた無数の機構の一つをカノンは
「奇跡照臨──『汝、何者にも畏れる事なかれ』」
カノンの詠唱と同時、十字架の剣に変化が起こった。剣の表面に走る紋様が蒼く発光し、無数の欠片へと分解され、再構築されていく。まるで、神が粘土を捏ねるように、形を変えていく聖なる武具にして触媒たる剣は刀身を捨て異形の剱へと変貌していく。
「『汝、神の意志たる剣たれ』」
重ねて詠唱したカノンの手元には、再構築された武具、刀身のない剣があった。それは、物理的な刃を失いながらも、より強力な「概念の刃」を宿したかのような姿。
悪魔はカノンの行動に何の疑念も抱かず、ただ真っ直ぐに向かってきていた。その動きは、定められたプログラムを実行する獣のように、単純で本能的だった。
再び悪魔が棘の散弾を放とうと構える。カノンは防御の姿勢すらせずに、ゆっくりとした動作で刀身のない剣を掲げた。その静謐な構えは、嵐の前の静けさのように、不気味なほどの落ち着きを放っていた。
悪魔の左腕から棘の散弾が放たれカノンへと襲いかかる──カノンは悪魔との間にある空間を、ただ胸で十字を切るかの様に静かに一閃した。
直後、世界が割れた。視覚が歪み、空間そのものが引き裂かれるような衝撃。
カノンと悪魔を隔てて|世界〈せかい〉が割れていた。棘の散弾はカノンへと届く前に塵と化し、相対していた悪魔の肢体は正中から二つへと分断されている。物理的な切断ではなく、存在そのものが「絶断」されたかのような光景。
悪魔の肢体が崩壊し、墜落していく。カノンの体は羽が生えているかのように緩やかに地面へと下降し、悪魔の残骸を見下ろす。その瞳には、勝利の歓喜も、敵への憐憫も宿らない。
そして、そこに残った悪魔の角を拾い上げた。
『仮称・棘の精神紋様。秘蹟会への帰還を推奨します』
カノンは無言で角を鞄へと仕舞い込み、歩き出した。その足取りに、任務の完遂以上の意味合いは感じられない。
白い都市を背に歩くカノンの背後で、都市の象徴であった白い塔が崩壊していく。まるで、彼女の通った道筋が、世界の終わりを告げるかのように。
粒子が舞い上がり、カノンの姿を飲み込む、白塵が晴れた時、そこにカノンの姿は無かった。
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