第8話 メーデー


 六月の半ばまでには、下絵はほぼ完成していた。記憶の中にある、土曜の昼の海。海水浴の季節には早く、誰もいない浜辺に座って、兄と無言で海を見ていた。

 ざざ、ざざ、と遠くから寄せてくる波音を聞いていると、怒鳴り合っている父母の声も忘れられそうな気がした。

 ――聞こえますか?

 ハーフパンの淡い色から順に溶かして、F4サイズの水彩画用紙に塗っていきながら、心の中で兄を呼んでみる。

 見たらすぐ分かるように、子どものころの私と兄を小さく描いた。

 毎日少しずつ色を足していって、いよいよ青い色を塗り始めるときは、初恋の人に電話をかける夜のようにわくわくした。どうしてこんなに長く、絵を描くことから離れていたのだろう。

 描きたいものが見つからなかったのは、気づかなかっただけかもしれない。自分の内側に、声にできない言葉があることに。

 障がい者のアート展に足を運んだとき、彼らの絵がとても饒舌に話しかけてくることに気がついた。「メーデー」じゃなくても、必死になって呼びかけたいことはたくさんある。うまく話せない彼らはもちろん、言語以外のコミュニケーションを欲しているのだろうけど、それはきっと、私も同じだ。封印してしまっていただけで。



 最後の白で波の飛沫を描き終えた日、私は完成した絵の写真を撮って、WEB上にアップロードした。これまで避けていたSNSに登録し、いくつかの企業や有名人を適当にフォローして、本命のNPO法人の投稿に「いいね」をつけた。運営しているのは職員だろうけれど、施設の利用者が見ることもあるかもしれない。

 もし、兄が私のアカウントを見つけてくれたら、きっとこの絵に気づく。

 ――聞こえますか? 

 メーデー、じゃなくても。

 私も元気にやっています。



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