第7話 はばたく
「どうでした?」
翌日出勤すると、感想を楽しみにしていたらしい高城さんに尋ねられた。
「とってもよかったです。弟さんの絵、今にもヒーローが飛び出してきそうで」
「ありがとう。伝えたらきっと喜びます」
いつも以上ににこにこしている高城さんを見ると、私も嬉しかった。大人になっても、きょうだいのことが気にかかるのは、姉も妹も同じなのだろう。
「弟さんの絵に影響を受けて、私も、絵を描いてみようかなって思いました」
これはまだ黙っておこうかと思っていたけど、何だか内緒にしておくのももったいない気がした。とても久しぶりに、もう一度絵を描こうと思えたこと。
「え、素敵じゃないですか。できたらぜったい見せてくださいね」
「ええ、きっと」
うなずいてから、ふと気がついて、まだ五月のままになっていた店のカレンダーをぴり、と破いた。六月が顔を出す。日付を見るだけでコンクールの締め切り日が浮かんできていたころのことを思い出した。
本棚の後ろに落ちていたのと同じ色を、まずは改めて買いに行く。うちに残っている画材を確認してみたら、使えるもの自体がほとんどなかった。以前は休日のたびに画材屋さんを訪れ、珍しい色やめったに使わない色まで買いそろえていたのに。
「あれ、久しぶりですね」
画材屋「べに」を訪れたら、店員の紅藤さんに驚かれた。
「転勤とかになったのかなって思ってたんですよ」
眼鏡をかけ、青いボーダーのシャツに黒いエプロン姿の彼は、数年前とあまり変わっていないように見える。この店の店長の息子で、ときどき個展を開いているそうだ。年は三十前後で、今では仕入れなども含め業務のほとんどを任されているという。
「絵を描くのから遠ざかっていたんですけど、最近時間ができたので、またやってみようかなって」
「おぉ、復活ですね。県展のライバルが増えるなぁ」
弾んだ声で言いながら、紅藤さんは新しい商品を出してくれた。
「ハーフパン、集めてたでしょう。きれいな色が入ったんですよ。青系と紫系、特におすすめです」
アイシャドウみたいな、小さなケースに入った固形絵の具が台の上に並んでいる。私はこの、カラフルで使いやすいハーフパンが大好きだった。水を足して溶けば描きたいときにすぐ使えるし、可愛いケースに入っている姿自体が愛おしい。チューブ入りの絵の具を買うつもりで来たけれど、せっかくだし、ハーフパンも買うことに決めた。
「マリンブルー、きれいですね。私、こういう深い青がいちばん好きです」
「でしょう。青が好きなんだろうなぁって、ずっと思ってました。よく買っていかれるからっていうのもありますけど、なんか、その人の雰囲気とかに色が見えるっていうか……」
漫画みたいなこと言ってすみません、と紅藤さんは笑う。
私もちょっと、分かる気がする。絵を描き続けていると、人を見たときによく似合う色が浮かんできたり、描かれた絵から感情が流れ込んでくるように思えるときがある。
そうだ、想いを伝えるために絵を描いてみよう、とそのときふいに思い立った。兄の絵を見て、兄が元気そうで嬉しい、と口に出す代わりに絵を描こう。うちの近所では、兄は「あんなこと」をした人だから、「会いたい」とか「元気だろうか」と言葉にするのは憚られるけれど、絵に描くなら大丈夫。私はずっと、そうやって、絵筆と色に想いを込めてきた。兄も今同じようにして立ち直ろうとしているのだから、私ももう一度、やってみよう。
「あの、青系の色、見本があったら見せてもらっていいですか? 海が描きたいなって思って」
「もちろん、もちろん。絵が完成したらぜひ見せてくださいよ」
紅藤さんは、ドイツ語のメーカー名が描かれた絵の具のサンプルを、パレットに少し出してくれた。海の源のような、美しく深い青が広がる。
何種類か試しに塗らせてもらって、購入する色を決めた。
兄と行った海を描こう。両親が家でずっと喧嘩していた日、兄が黙って手を引いて連れていってくれた海。
「ありがとうございます!」
久しぶりにたくさん買った絵の具の重みを感じながら、私は店を出た。大丈夫、きっとまた、絵が描けるようになる。
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