第6話 きせき
「きせきさきみだれ展」の開催は、五月の終わりの週からだった。高城さんといっしょに行きたかったが、シフトの都合上、社員は交代でしか休めない。誘う相手もいないので、一人で足を運んだ。
「こんにちは。パンフレットをどうぞ」
会場に足を踏み入れると、スタッフのTシャツを着た女性が、パンフレットを渡してくれた。
順路に沿って、小さな建物の中を巡る。壁には釘やペンキの跡がしっかりと残っていて、元の居酒屋を自分たちの手でリフォームしたのだろうということがうかがえた。
青い手すりのついた階段をのぼりながら、壁を埋めるように飾られた絵の一枚一枚と向き合う。明るい色を中心にしたキリンやライオンの絵、精密な船の模型の絵、森の奥にたたずむ古い屋敷の絵、泣いているような自画像、畑で野菜を収穫している姿。描き手の心を揺さぶったのであろうモチーフがまっすぐに描かれ、ダイレクトに色を帯びて迫ってくる。
高城さんの弟が描いた、「みんなを救うヒーローの絵」も、二階の入り口付近に展示されていた。作者紹介のプレートもそばに貼られている。
『大きな会社で働いていた僕は、ある朝急に、起きられなくなってしまいました。自分が障がいを持つなんて思っていませんでした。ここに来て、たくさんの人に救われました。だから、いつか、強い人も弱い人もみんな助けるヒーローになれたらいいなと思っています。
Shin』
短い文章に葛藤が表われている。彼はきっとこれまで、ヒーローそのもののような「強い側」の人間だったのだろう。そこから、A型事業所に移って、すぐには自分の変化を受け入れられなかったかもしれない。時間をかけてこの絵を描き上げていく中で、障がいのある自分を認めていくことができたのだろう。
二階の奥まで行ったとき、私は一枚の絵に出会って、「あっ」と声を出しかけた。
「思い出」というその絵に描かれているのは、私だったからだ。
絵の中で、少女と少年と、夫婦らしき男女が、こちらに背を向けて、牧場の牛と触れ合っている。ウサギの耳のついた赤いバッグをななめにかけ、黄色いワンピースを着たポニーテールの少女は、間違いなく小学校のころの私だった。
誰がこれを、と考えてみたけれど、色の重ね方や雰囲気が、ときどき絵を描いていた兄のものにとても似ていた。この記憶をだいじに共有しているのも、彼くらいしか思い当たらなかった。
両親が離婚する少し前に、家族で父の知り合いの経営する牧場に遊びに行ったのだ。あれもゴールデンウィークのことで、これまで旅行などに連れていってもらったことのなかった私と兄ははしゃいでいた。牛の大きな黒い瞳、草を食べている姿、動物のニオイ、すべてはっきり覚えている。
兄もきっと、同じだったのだろう。
作者は「さとし」となっていたが、兄はさとしという名ではない。よそに移って、名前を変えたのだろうか。それとも、ペンネームか何かを使っているのだろうか。まったくの他人かもしれなかったが、私にはどう見ても、兄だとしか思えなかった。
『きせきさきみだれの姉妹施設からのリモート参加のメンバー。普段は農業を手伝ってくれています。いつも一生懸命で、おいしい野菜作りに励んでいます』
と、職員が書いたメッセージが添えられていた。
もし彼が兄なのだとしたら、きっと、遠く離れたその施設で、今の彼なりに元気にやっているのだろう。牧歌的な色合いの絵からは、悲壮感や苦悩は伝わってこなかった。もちろん、彼が過去にやったことは、たった一度でも許されない行為だが、妹としては、兄にずっと苦しんでいてほしいとは思わない。ひっそりとでも、私たちのところにはもう帰ってこなくても、どこかで元気に生きていてくれたらなと思う。
昔、まだ二人とも子どもだったころに、映画で観て、「メーデー、メーデー」と危険を伝える姿の真似をしたことがある。遭難した飛行機のパイロットになった兄が「メーデー、メーデー」と私を呼んで、魔法使いの私が助けに行くのだ。テレビでやっていた洋画の内容は難しかったから、私たちの間では、アニメで観た魔法がぜんぶ解決することになった。
「サナ、学校でなんかあったら、でかい声でメーデー、メーデーって俺を呼べよ。飛んでいって助けてやるから」
両親の離婚が決まったとき、兄が言った。二人とも母に引き取られるのが決まって、父が出ていくことになっていた。
兄とは特別仲良しというわけでもなかったけれど、「いじめられたら守ってやる、困ったことがあったら三年生の教室まで行ってやるから」と言ってくれたのは、たぶん本心だったのだと思う。
結局、私が「メーデー」を発令したことは一度もないままだった。女子同士の小さないざこざは、母にこっそり話したほうが頼りになった。むしろ、男の悩みを誰にも相談できないままだった兄のほうが、孤独だったかもしれなかった。
大人になって、事件を起こしたときも、直前まで何かで悩んでいたかもしれない兄のSOSを、私はキャッチできなかった。「あんなこと」が起こる前に何かに気づいていたら、今も兄を気遣うのに後ろめたい思いをする必要などなかったかもしれないのに。
今、遠くにいて、「メーデー、メーデー」と聞こえたら、すぐに電話でもしたいけれど、番号が変わってしまっているから、もう二度とつながらないかもしれない。
それでも、絵を描いた時点の兄が、元気でいるらしかったのは、妹として少しだけ、嬉しかった。
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