第16話
『……君の見ている世界を、知りたくなったんだ』
僕が送ったその言葉に、既読の文字はすぐについた。けれど、そこから先の返信は、これまでになく、長い時間途絶えた。スマートフォンの画面の向こう側で、彼女がどんな表情で、どんな思いで僕の言葉を受け止めているのか、僕には想像することもできなかった。
ただ、何か、取り返しのつかないことを言ってしまったのではないかという、漠然とした不安だけが、胸の中に広がっていく。
十分ほど経っただろうか。ようやく届いた彼女からのメッセージは、僕が予想していたものとは、全く違う熱量を帯びていた。
『私の見ている世界……?』
『そんなもの、知ってどうするんですか。私の世界なんて、灰色で、息が詰まるだけの、退屈な場所なのに』
画面の向こう側から、悲痛な叫びが聞こえてくるような気がした。
『私は、「port」さんの写真の中に、自由を見ていたんです。私が決して見ることのできない、キラキラした、別の世界を。受験とか、偏差値とか、そういうものとは無縁の、ただ美しいだけの世界を。そこだけが、私の唯一の逃げ場所だったのに……』
『なのに、どうしてあなたまで、そっち側に来ようとするんですか』
その言葉は、鋭い刃物のように、僕の胸を深く抉った。
彼女にとって、僕の写真は、僕という人間は、息苦しい現実からの「逃避先」だったのだ。僕が彼女と同じ頂を目指すということは、彼女から、その聖域を奪うことに他ならなかった。
良かれと思ってやったことが、すべて裏目に出ていた。僕は、彼女の心を救うどころか、逆に追い詰めてしまっていたのだ。
『お願いだから、やめてください』
彼女の懇願するようなメッセージが、追い打ちをかけるように届く。
『あなたは、あなたのままでいてください。「port」さんは、もっと自由な世界で生きて。私のことなんて気にしないで、あなたが美しいと思うものを、これからも撮り続けてください。それが、私のたった一つの、希望なんです』
君は、もっと自由な世界で生きてよ。
その言葉は、僕の頭を鈍器で殴られたかのように、ぐらぐらと揺さぶった。
僕が目指していたものは、一体何だったのだろう。彼女のため? 本当に、そうだったのだろうか。
僕の脳裏に、あの日の記憶が蘇る。
中学受験の直前、すべてを投げ出して逃げ込んだ、あの見知らぬ町。
そこで出会った、太陽みたいな笑顔の女の子。彼女が象徴していたのは、まさしく「自由」そのものだった。
僕は、あの日の彼女に焦がれながら、いつの間にか、彼女が最も嫌うであろう、不自由な世界へと、自ら足を踏み入れていたのだ。
『……ごめん』
僕は、ただ、それだけを打ち返すことしかできなかった。
『でも、僕には、もうこれしか思いつかなかったんだ。君の苦しみが、少しでも分かるようになりたかった。それは、僕が小学生の頃に感じていた息苦しさと、きっと同じものなんじゃないかって思ったから』
『……!』
『根を詰めて勉強ばかりしていると、いつか必ず、無理が来る。僕がそうだったから。だから、君の隣で、同じ景色を見ながら、君の息抜きの場所になれたらって……。勝手に、そう思ってたんだ』
それは、言い訳だった。
けれど、僕の偽らざる本心でもあった。
僕が送ったメッセージに、既読の文字はついた。
けれど、その夜、彼女から返信が来ることは、もう二度となかった。
8
次の日から、僕と『M』とのDMは、ぷっつりと途絶えた。
僕から何かを送ることも、できなかった。どんな言葉をかければいいのか、分からなかったからだ。僕の存在そのものが、今、彼女を苦しめている。その事実が、重い鉛のように僕の心にのしかかっていた。
彼女を失って初めて、僕は、自分の日常が、どれだけ彼女の存在に支えられていたのかを、痛いほど思い知らされた。
机に向かっても、参考書の文字は頭に入ってこない。ふとした瞬間に、スマートフォンの通知を確かめてしまう。そこにあるのは、無機質なニュース速報や、どうでもいい広告ばかり。僕が一番待ち望んでいる名前は、どこにもなかった。
「port」の更新も、完全に止まった。
シャッターを切る理由そのものを、見失ってしまったからだ。僕の写真は、一体、誰のためにあったのだろう。
数日が過ぎた。
僕は、まるで幽霊のように、ただ決められたルーティンをこなすだけの毎日を送っていた。学校へ行き、図書館で勉強し、家に帰る。その繰り返し。けれど、そこに、以前のような熱量はもうなかった。
僕は何のために、こんなに苦しい勉強をしているのだろう。
その問いが、何度も頭の中を駆け巡る。
『M』に会うため?
でも、彼女はそれを望んでいない。
写真のため?
でも、今の僕には、撮りたいものなんて何もない。
目標を見失った努力は、ただの苦役でしかなかった。中学受験の頃に戻ってしまったかのような、あの息苦しい感覚。僕は、また同じ過ちを繰り返そうとしているのだろうか。
僕は、自分の部屋の隅で埃をかぶっていた、古いアルバムを引っ張り出した。
写真部に入ってから、撮りためてきた写真たち。
ページをめくっていくと、初期の頃の写真が、あまりにも眩しく見えた。
構図は拙く、ピントも甘い。けれど、そこには、世界を発見した瞬間の、僕自身の感動が、確かに焼き付いていた。
あの頃の僕は、もっと自由だった。
誰かのためではなく、ただ、自分が美しいと思ったものを、夢中で追いかけていた。
僕は、一体どこで、道を間違えてしまったのだろう。
『M』と出会い、彼女に認められたいと願った、あの瞬間からだろうか。いや、違う。彼女は、いつだって僕の写真そのものを、肯定してくれていた。道を間違えたのは、彼女と同じ世界を見ようとして、僕自身の視点を、見失ってしまった、僕自身だ。
僕は、アルバムを静かに閉じた。
そして、カメラバッグを手に取り、部屋を飛び出した。
行き先は、決まっていなかった。ただ、もう一度、あの頃の気持ちを取り戻したかった。
僕が、僕であるための、写真。
それを、もう一度、この手で掴み取らなければならない。
そうしなければ、僕は、『M』に会う資格すらない。
そう、強く思った。
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