第17話
あてもなく電車に飛び乗り、僕は窓の外を流れる景色をぼんやりと眺めていた。
どこへ向かっているのか、自分でも分からなかった。ただ、この息苦しい日常から、一秒でも遠くへ離れたかった。その行為は、かつて中学受験から逃げ出した、あの日の自分と奇妙に重なって見えた。
いくつかの駅を通り過ぎ、ふと、全く知らない駅名が目に留まった。僕は、何かに導かれるように、その駅で電車を降りた。
駅前に広がるのは、観光地でも、大きな繁華街でもない、ごくありふれた住宅街だった。けれど、その「何でもなさ」が、今の僕には心地よかった。僕は、カメラを首から下げ、目的もなく歩き始めた。
シャッターは、切らなかった。
いや、切れなかった、という方が正しい。今の僕には、世界を切り取る資格がないような気がした。僕はただ、自分の目と心だけで、目の前の風景を感じようと努めた。
古びた商店街。軒先で昼寝をする猫。子供たちの甲高い笑い声。ゆっくりと流れていく雲。
それらは、僕が「port」として活動を始めた頃、夢中でレンズを向けていた、ありふれた、しかし愛おしい風景のはずだった。
なのに、今の僕の心には、何も響いてこない。
僕と世界の間には、分厚いガラスの壁があるようだった。
―――君の見ている世界を、知りたくなったんだ。
僕が『M』に送った言葉が、頭の中で何度も反響する。
僕は、彼女と同じように息苦しい世界に身を置くことで、彼女の苦しみに寄り添えると思っていた。彼女の景色を共有することで、彼女を救う写真が撮れると、本気で信じていた。
なんて、傲慢な考えだったのだろう。
疲弊し、視野が狭くなった人間が、どうして他人を救うことなどできるだろうか。
自分が溺れかけているのに、どうして誰かに救いの手を差し伸べられるだろうか。
本当に人の心を救えるのは、自分自身がしっかりと大地に立ち、心に余裕を持っている人間だけだ。豊かな土壌にしか、美しい花は咲かない。僕がやろうとしていたのは、乾ききった砂漠で、無理やり花を咲かせようとするような、愚かな行為だったのだ。
ミサキが僕の写真に見ていたのは、「自由」だった。
彼女が生きる息苦しい現実とは違う、もう一つの世界の可能性。僕が受験勉強に没頭し、僕自身から自由を奪った瞬間、僕の写真は、彼女を救う力を失ってしまった。
僕は、彼女の逃げ場所を、僕自身の手で破壊してしまっていたのだ。
公園のベンチに、深く腰を下ろした。
空を見上げると、どこまでも高い、秋の空が広がっていた。
僕は、これからどうすればいいのだろう。
受験勉強を、やめるべきなのか? でも、一度掲げた目標を、ここで投げ出すのは違う気がする。それは、ただの逃避でしかない。
『M』との関係は?
このまま、自然消滅するのを待つしかないのだろうか。
考えれば考えるほど、頭の中はぐちゃぐちゃになった。
僕は、静かに目を閉じた。
その時、僕の脳裏に、ふと、あの日の光景が蘇った。
すべてを投げ出して逃げ込んだ、あの見知らぬ町の公園。泥だらけになってボールを蹴った、ほんの三十分の記憶。
あの時の僕は、確かに「現実逃避」をしていた。
けれど、あの逃避があったからこそ、僕はその後の過酷な受験勉強を乗り越えることができたのだ。あの三十分の記憶が、僕の心のお守りになっていたから。
そうだ。
逃げることは、必ずしも悪いことじゃない。
戦うために、時には逃げることだって必要なんだ。心に、安全な場所を確保することが。
僕が『M』にしてあげられることは、彼女と同じ泥沼に身を投じることではなかった。
僕がやるべきだったのは、僕自身が、彼女にとっての「安全な逃げ場所」であり続けることだったのだ。僕が僕自身の世界をしっかりと生き、心に余裕を持ち、自由な視線を失わないこと。そして、そこから生み出される写真を通して、彼女に「世界はこんなに広くて、美しいんだよ」と、伝え続けること。
それこそが、本当の意味で、彼女の心に「寄り添う」ということだったのではないか。
目を開けると、視界が、少しだけクリアになったような気がした。
目の前の、何でもない公園の風景が、さっきまでとは違って、少しだけ輝いて見えた。
僕は、ゆっくりとカメラを構えた。
ファインダーを覗くと、夕日を浴びてキラキラと光る、ブランコの鎖が目に飛び込んできた。
カシャッ。
久しぶりに、心の底から「撮りたい」と思って、シャッターを切った。
それは、誰のためでもない、僕自身の心の回復のための、一枚だった。
僕は、決めた。
受験勉強は、続ける。僕が僕自身の意志で決めた、挑戦だからだ。
けれど、もう無理はしない。
時々、こうしてすべてを投げ出して、知らない町へ行こう。カメラだけを手に、現実から逃避しよう。そして、そこで心に溜め込んだ美しい光を、写真に変えて、『M』に届けよう。
戦うために、逃げる。
そして、逃げた先で見つけた光を、誰かのための希望に変える。
それこそが、僕らしい戦い方なのだ。
僕は、ようやく、自分の原点に立ち返ることができた気がした。
ベンチから立ち上がり、駅へと向かう。
足取りは、来た時よりも、ずっと軽かった。
スマートフォンの電源を入れると、メッセージの通知は、やはり一件もなかった。
でも、もう焦りはなかった。
僕は、僕のペースで、また歩き出せばいい。
その日の夜、僕は、数日ぶりに「port」を更新した。
投稿したのは、今日撮った、夕日に光るブランコの鎖の写真。
そして、そこに、短い言葉を添えた。
『時には、すべてを投げ出して、遠くへ。戦うための、大切な逃避行』
その投稿に、「いいね」を押してくれる人がいるのか、あの『M』が見てくれるのか、僕には分からなかった。
けれど、それでよかった。
これは、僕自身の、新たな始まりを告げるための、静かな誓いなのだから。
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現実から逃げた先 人工夢 @solitudo220
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