第15話



そのメッセージは、ある日の深夜、僕が化学の分厚い問題集と格闘している時に届いた。スマートフォンの画面に『M』の名前がポップアップ表示されると、僕は張り詰めていた集中力の糸を緩め、ペンを置いた。彼女とのやり取りは、この殺伐とした日々の中の、唯一のオアシスだった。


『こんばんは。「port」さん、最近、何かありましたか?』


いつもと少し違う、どこか遠慮がちな、それでいて核心を突いてくるような書き出しに、僕は少しだけ胸がざわつくのを感じた。


『こんばんは。いや、特に何もないよ。いつも通りだよ』


僕は、努めて明るく、当たり障りのない返事を打った。受験勉強を始めたことは、まだ彼女に話していなかった。それは、僕なりのサプライズのつもりだった。同じ大学に合格したら、その時にすべてを打ち明けよう。そう、勝手に決めていたのだ。


すぐに、彼女から返信が来た。


『そうですか……。なら、いいんです。ただ……』


彼女は、少し言葉をためらうように、一度メッセージを切った。そして、数秒の間をおいて、次の言葉が送られてきた。


『最近の「port」さんの写真、とても綺麗です。構図も光も、完璧で。……でも、何だか、少しだけ、寂しい感じがします』


寂しい。

その言葉は、小さな棘のように、僕の胸にちくりと刺さった。


『どうして?』


僕は、そう聞き返すのが精一杯だった。


『うまく言えないんですけど……。以前の写真には、もっと「port」さん自身の、心の動きみたいなものが写っていた気がして。雨上がりの匂いが好きだとか、夕焼けを見て切なくなったとか、そういう感情が。でも、最近の写真は、まるで誰か他の人が撮ったみたいに、静かで……。綺麗すぎて、私の心が入り込む隙間がない、というか……。ごめんなさい、偉そうなことを言って』


僕は、スマートフォンの画面を握りしめたまま、動けなくなった。

彼女の言葉は、あまりにも正確に、僕自身の心の状態を射抜いていた。


心の動きが、写っていない。

当たり前だ。今の僕の心は、学力という名の物差しで自分を測り、合格ラインという名のゴールに向かって最短距離を走ることしか考えていない。道端の花に感動したり、空の色に切なくなったりする余裕なんて、どこにもなかった。


誰か他の人が撮ったみたい。

その通りかもしれない。最近の僕は、かつて自分が美しいと感じた風景の「記憶」を、ただなぞるようにしてシャッターを切っていただけだ。そこに、今の僕の感情は存在しなかった。


僕は、彼女に嘘をつくことができなかった。

そして、これ以上、本当の自分を隠しておくことも、できないと思った。


僕は、大きく深呼吸をしてから、ゆっくりと文字を打ち始めた。


『……君の言う通りかもしれない。僕、今、大学受験の勉強をしてるんだ』


『え……?』


『来年の春、絶対に合格したい大学があって。毎日、そのことしか考えられないくらい、必死になってる。だから、写真と、うまく向き合えなくなってるんだと思う』


送信ボタンを押すと、どっと疲労感が押し寄せてきた。秘密にしていた計画を打ち明けた安堵感と、彼女をがっかりさせてしまったかもしれないという後悔が、ぐちゃぐちゃに混ざり合っていた。


しばらく、彼女からの返信はなかった。

既読の文字だけが、僕の告白が確かに彼女に届いたことを示している。沈黙の時間が、やけに長く感じられた。僕の心臓が、嫌な音を立てて脈打つ。


やがて、彼女から、震えるような文字でメッセージが届いた。


『そうだったんですね……。知らなかったとはいえ、失礼なことを言ってしまって、本当にごめんなさい』


『いや、君は何も悪くない。むしろ、気づかせてくれて、ありがとう。僕の写真は、君にだけは、正直でいたかったのに』


『でも、どうして……。「port」さんは、写真という、素晴らしい才能があるじゃないですか。推薦とか、もっと別の道だって、たくさんあるはずなのに。どうして、わざわざそんなに苦しい道を……』


彼女の言葉は、かつて進路指導の先生に言われた言葉と、よく似ていた。

けれど、彼女の言葉には、先生にはなかった、僕の心を案じる切実な響きがあった。


そして、その言葉を聞いた瞬間、僕は、自分がどれだけ独りよがりな考えでいたのかを、思い知らされた。


僕は、彼女のためを思って、この道を選んだつもりでいた。

彼女と同じ世界を見るために。彼女の苦しみに寄り添うために。

けれど、当の彼女は、そんなこと、望んでいなかったのだ。


むしろ、彼女は、僕の写真の中に、「ここではない、どこか別の世界」を見ていた。

受験という、彼女を縛り付ける息苦しい現実とは全く違う、自由な視線を。

僕が受験勉強を始めるということは、彼女にとって唯一の逃げ場所だったはずの世界に、現実の匂いを持ち込むような、裏切りにも似た行為だったのかもしれない。


僕の口から、乾いた笑いが漏れた。

なんて、馬鹿だったんだろう。


『……君の見ている世界を、知りたくなったんだ』


僕は、ほとんど無意識に、そう打ち込んでいた。

それは、僕の、偽らざる本心だった。


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