第14話
僕の生活は、あの日を境に一変した。
学校が終わると、仲間たちとの他愛ない雑談もそこそこに、僕は真っ直ぐ図書館へ向かう。スマートフォンの画面に映るのは、SNSのタイムラインではなく、英単語のアプリ。部屋の机の上には、写真雑誌の代わりに、分厚い数学の参考書が城壁のように積み上げられていった。
何から手をつければいいのか、最初は途方に暮れた。高校二年の秋。僕が目指す頂きは、あまりにも高く、険しく、そして時間は有限だった。自由な校風に甘え、すっかり錆びついてしまった学力は、想像以上に深刻だった。
「本気か、お前?」
最初に相談したのは、写真部の部長だった。彼は僕と同じ高校三年生で、すでに推薦で有名私立大学への進学を決めている、校内でも指折りの秀才だった。
「本気です。でも、何からやればいいか、全く分からなくて」
僕の真剣な目に、彼はため息をつきながらも、自分の使っていた参考書や問題集を惜しげもなく譲ってくれた。
「まあ、お前が本気なら、俺も協力するよ。分からないことがあったら、いつでも聞け。ただし、写真は疎かにするなよ。お前の写真は、俺たち写真部の誇りなんだからな」
その言葉が、嬉しくもあり、少しだけ胸に重くのしかかった。
次に頼ったのは、学校の進路指導の先生だった。僕の志望校を聞いた先生は、最初、冗談だと思ったらしい。けれど、僕の成績表と、彼の目の前で解いてみせた数学の問題を見て、その表情を驚きと困惑が入り混じったものに変えた。
「……湊。君の地頭が良いことは認める。だが、正直に言って、これは無謀な挑戦だ。それに、君には写真という素晴らしい武器があるじゃないか。推薦でだって、もっと楽に良い大学に入れる道を、なぜわざわざ捨てるんだ?」
「楽な道には、興味ないんです」
僕は、きっぱりとそう言った。その言葉は、まるでどこか遠い場所にいる『M』に語りかけているようだった。
そして、僕が最後に連絡を取ったのは、あの忌まわしい記憶の象徴とも言える、中学受験時代にお世話になった塾の講師だった。卒業以来、一度も連絡を取っていなかった僕からの突然の電話に、彼はひどく驚いていた。けれど、僕が志望校の名前を告げると、彼の声のトーンは明らかに変わった。
「……そうか。お前、まだ、戦うことを諦めていなかったんだな」
その声には、僕が第一志望に落ちたことへの憐憫ではなく、新たな挑戦への期待と興奮が滲んでいた。
「分かった。俺でよければ、いくらでも力を貸そう。お前のような教え子を、もう一度指導できるのは、講師冥利に尽きる」
こうして、僕の周りには、少しずつ「受験」という名の歯車が組み上がっていった。部長からは効率的な学習計画の立て方を、学校の先生からは基礎的な学力の底上げを、そして塾の講師からは、志望校に特化した高度な戦術を。僕は、まるで乾いたスポンジが水を吸い込むように、あらゆる知識を吸収していった。
毎日が、目まぐるしく過ぎていく。
朝、目覚めると同時に英単語帳を開き、通学の電車の中で古文の単語を覚える。授業中は内職こそしないものの、先生の言葉を一言も聞き漏らすまいと神経を集中させ、放課後は図書館が閉まるまで自習し、家に帰ってからも塾の講師から出された課題を深夜まで解き続ける。
そんな生活の中で、僕がカメラに触れる時間は、物理的に、そして精神的にも、どんどん削られていった。
週末、息抜きに、と自分に言い聞かせてカメラを手に街へ出ても、僕の頭の中は、解けなかった数学の問題や、覚えきれない世界史の年号でいっぱいだった。ファインダーを覗いても、被写体の向こう側に、数式や英文がちらついて見える。
「美しい」と感じる、心の余裕が、失われていた。
シャッターを切る回数は、目に見えて減っていった。かつては、何気ない日常のすべてにレンズを向けていたのに。今は、何か明確な「撮るべきもの」を探してしまい、結局何も見つけられないまま、徒労感だけを抱えて家に帰ることが多くなった。
それでも、僕は「port」の更新を止めなかった。
それは、僕と『M』を繋ぐ、唯一の糸だったからだ。義務のように、過去に撮りためた写真の中から、当たり障りのない、それなりに「綺麗」なものを選んで投稿する。
僕自身は、その変化に、まだ気づいていなかった。
いや、気づかないふりをしていたのかもしれない。
僕の心が、あの頃とは違う場所にいることを。
僕の写真から、かつての光が、急速に失われつつあるということを。
その残酷な事実を、僕に突きつけたのは、他の誰でもない。
僕が、そのために頑張っているはずの、『M』からの、一通のメッセージだった。
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