第13話


文化祭が、間近に迫っていた。

写真部の展示は、体育館の隅の小さな一角を借りて行われる。部員一人につき、A3サイズで引き伸ばした自信作を一点、展示するのが決まりだった。


「湊、出品作、決まったか?」

部室で、部長が僕に尋ねた。僕の手元には、これまで撮りためた写真のコンタクトシートが、何枚も散らばっている。けれど、僕の心を引きつける一枚は、その中にはなかった。


「いえ、まだ……。どれも、何か違う気がして」

「お前なあ、贅沢な悩みだぞ。どれも技術的には完璧なんだから」


部長は呆れたように笑ったが、僕の悩みは深刻だった。技術じゃない。僕が撮りたいのは、もっと、心の深い部分を揺さぶるような、そんな一枚だった。


締め切りは、三日後。

焦りだけが募る中、僕はカメラを片手に、あてもなく街をさまよっていた。夕暮れの商店街、子供たちの笑い声が響く公園、光と影が交差する路地裏。シャッターは切るものの、現像する前から結果は見えているような気がした。これもまた、「綺麗なだけ」の写真になるのだろう。


その日の夜、僕は『M』にDMを送った。


『文化祭の展示写真、まだ決まらない。僕の写真には、何が足りないんだろう』


弱音だった。普段、僕たちのやり取りはもっと前向きなものが多い。けれど、その時の僕は、誰かにすがりたいような気持ちだった。


すぐに、彼女から返信が来た。


『足りないものなんて、何もないと思います。ただ、「port」さんが、心の底から「美しい」と感じた瞬間を、切り取ればいいだけじゃないでしょうか。誰かの評価のためじゃなく、未来の自分自身に、この感動を忘れないで、と伝える手紙みたいに』


『未来の自分への、手紙……』


『はい。そして、もしよかったら……。その手紙を、私にも見せてください。私は、どんな写真でも、きっと「美しい」と感じますから』


彼女の言葉は、乾いた僕の心に、水が染み込むように、すっと入ってきた。

誰かの評価のためじゃない。ただ、僕が感じたままを。そして、それを、たった一人でもいい、信じて待っていてくれる人がいる。


僕は、何かから解放されたような気がした。

翌日の放課後、僕は再びカメラを手に、いつもの河川敷に立っていた。目的はなかった。ただ、夕日が沈むのを、ぼんやりと眺めていた。


空が、オレンジから紫、そして深い藍色へと、刻一刻と表情を変えていく。対岸の街の明かりが、ぽつり、ぽつりと灯り始める。風が、草の匂いを運んでくる。


それは、これまで何百回と見てきた、ありふれた風景だった。

けれど、その日の僕には、そのすべてが、奇跡のように美しく見えた。


―――ああ、綺麗だ。


心の底から、そう思った。

誰のためでもない。ただ、僕自身が、この瞬間を永遠に留めておきたいと、強く願った。

そして、この景色を、あの『M』という女の子にも見せたい、と。


僕は、夢中でシャッターを切った。

構図も、露出も、何も考えなかった。ただ、僕の心が震えた、その瞬間を。



文化祭当日。

僕は、あの日の河川敷で撮った一枚を、展示した。

タイトルは、つけなかった。見る人が、自由に感じてくれればいいと思ったからだ。


僕の写真の前で、足を止める人が、いつもより多いような気がした。

「なんか、この写真、いいな」

「うん。別に特別な場所じゃないのに、なんか泣きそうになる」

知らない生徒たちの囁き声が、僕の耳に届く。


そして、最終日。展示の片付けをしていると、部長が僕の肩を叩いた。

「湊、おめでとう。お前の写真、最優秀賞だってよ」


文化祭の写真展では、来場者の投票で、いくつかの賞が決まることになっていた。僕の写真は、その中で、最も多くの票を集めたというのだ。


「正直、驚いたよ。お前の写真、技術的にはいつものお前だけど、何かが全然違った。……ああ、そうか。初めて、お前の写真から、誰かに『伝えたい』っていう気持ちが、見えた気がする」


部長の言葉に、僕はハッとした。

誰かに、伝えたい。

そうだ。僕は、あの瞬間、確かにそう思っていた。顔も知らない、『M』という女の子に、この美しい世界を届けたい、と。


その夜、僕は『M』に、受賞したことを報告した。


『すごい! おめでとうございます! 私も、その写真、見てみたかったです』

『ありがとう。でも、これは君のおかげだ。君の言葉がなかったら、あの写真は撮れなかった』


『そんなことないです。でも……。なんだか、自分のことのように嬉しいです』


彼女からの祝福の言葉を読みながら、僕の心の中には、新たな、そして確かな目標が芽生え始めていた。


彼女は、いつも言っていた。

『私の見ている世界は、狭くて、息苦しい』と。

決められたレールの上を、ただひたすらに走り続けているのだ、と。


僕も、そうだった。

でも、僕は、そこから抜け出すことができた。


もし、僕が、彼女の見ている景色を、少しでも共有することができたなら。

僕が、彼女が目指している場所の、すぐ近くまで行くことができたなら。

僕は、もっと、彼女の心に寄り添うような写真が、撮れるようになるのではないだろうか。


彼女は、具体的な志望大学の名前を口にしたことはない。けれど、彼女との会話の端々から、それがどこなのか、僕には何となく察しがついていた。彼女の聡明さ、そして、彼女が自らに課しているであろう、途方もなく高いハードル。


僕も、そこへ行こう。

今の僕の学力では、無謀な挑戦であることは分かっていた。中学時代、あれだけ勉強した知識は、自由な校風の中で、すっかり錆びついてしまっている。


けれど、僕の心は、もう決まっていた。

写真のため。そして何より、僕の心を救ってくれた、あの『M』という女の子のため。

僕も、同じ頂を目指そう。


僕は、その日から、机に向かった。

開いたのは、写真雑誌ではなく、埃をかぶっていた参考書だった。


それは、中学受験の時のような、苦痛に満ちた義務ではなかった。

ファインダーの向こう側にいる、大切な誰かに、いつか必ず会いに行くための、希望に満ちた旅の始まりだった。


僕は知らない。

僕が目指し始めたその場所こそが、かつて僕を救ってくれた「太陽みたいな笑顔の女の子」が、血の滲むような努力の果てに目指している、全く同じ場所であるということを。


二つの運命は、まだお互いの存在に気づかぬまま、同じ一つの頂を目指して、静かに、しかし力強く、歩み始めたのだった。

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