第12話
高校二年の秋。文化祭の準備で騒がしく色づき始めた校舎の片隅で、僕は一人、ファインダーの中から世界を眺めていた。
僕が通うことになった第二志望の高校は、前評判通り、驚くほど自由な場所だった。制服はなく、髪を染めようがピアスを開けようが、教師たちは何も言わない。校則は「他人に迷惑をかけない」という、ただ一点のみ。中学受験という画一的な価値観の中で生きてきた僕にとって、そこはまるで異国のように刺激的で、解放感に満ちていた。
僕は、迷わず写真部に入部した。中学受験のために諦めたサッカーではなく、一人で完結できる写真を選んだのは、ある種の必然だったのかもしれない。父と母は、僕が第一志望に落ちたことに落胆しながらも、僕が新しい学校で楽しそうにしているのを見て、少しずつ干渉を緩めていった。特に、僕が写真にのめり込み、「port」というアカウントでささやかながらも評価を得ていることを知ると、彼らなりに息子の新たな道を認めようとしているようだった。
解放されたかった親からの呪縛。その第一歩として始めた「port」の活動は、僕の高校生活を、予想以上に豊かなものにしてくれた。撮った写真を投稿すれば、たくさんの「いいね」がつき、時には見知らぬ人から温かいコメントが寄せられる。自分の視線が、誰かに認められている。その感覚は、模試の偏差値とは全く違う種類の、僕の自己肯定感を静かに満たしていった。
けれど。
そんな輝かしい日々も、長くは続かなかった。
高校二年の夏を過ぎたあたりから、僕は、自分が撮る写真に、言いようのない退屈さを感じるようになっていた。
カメラを手に街を歩いても、心が動かない。美しい風景を見ても、「ああ、綺麗だな」と思うだけで、シャッターを切る衝動が湧き上がってこない。かつては、世界のすべてが被写体に見えていたのに。今は、何もかもが色褪せて、薄っぺらく見えた。
「最近の湊の写真、なんか元気ないよな」
部室で、部長の先輩にそう言われたことがある。
「上手いんだけどさ、なんかこう、心が写ってない感じ? 優等生的な、綺麗なだけの写真って感じかな」
図星だった。
僕の写真は、マンネリ化していた。構図も、光の捉え方も、そつなくまとまっている。けれど、そこに初期の頃のような、世界を発見した瞬間のときめきや、衝動が欠けている。僕自身が、一番よく分かっていた。
「port」の人気も、緩やかに低迷していた。新しいフォロワーはほとんど増えず、投稿への反応も鈍い。それは、僕の心の熱量が、そのまま正直に反映された結果だった。
「人物を撮ってみたらどうだ?」
部長は、そうアドバイスをくれた。
「お前、風景とかスナップは上手いけど、人を撮らないだろ。誰か、撮りたいって思うようなモデルを見つけたら、何か変わるかもしんないぜ」
人物ポートレート。
それは、僕が最も苦手とし、意図的に避けてきたジャンルだった。
人を撮ることは、その人の内面に踏み込むことだ。被写体との信頼関係がなければ、良い写真など撮れるはずがない。僕は、それが怖かった。他者と深く関わることも、そして、自分自身の内面を写真に写し出されてしまうことも。僕が撮る人物写真は、きっと、部長が評したように「綺麗なだけ」の、魂のない人形のような写真になるに違いなかった。
そんな閉塞感の中で、僕が唯一、シャッターを切る理由をくれる存在がいた。
『M』
それが、彼女のハンドルネームだった。
彼女との出会いは、3年ほど前。僕が投稿した夜の駅のホームの動画に、彼女が残した『ありがとう』という、たった一言のコメントがきっかけだった。何百というコメントの中で、そのシンプルな感謝の言葉が、なぜか僕の心に強く引っかかった。僕は、ほとんどしたことのない、特定のコメントへの返信という形で、彼女にDMを送った。
それから、僕たちの、不思議な関係が始まった。
僕たちは、お互いの本名も、顔も、住んでいる詳しい場所も知らない。ただ、DMでのやり取りを通して、彼女が僕と同じ高校二年生であること、そして、僕と同じように、息苦しい毎日の中で、何かから逃れるようにして僕の写真を見てくれていることだけを知っていた。
最初は、僕の写真への感想が中心だったやり取りは、いつしか、お互いの日常の悩みを打ち明ける場所に変わっていった。
彼女は、厳格な家庭で育ち、自分の将来を親に決められていることに苦しんでいた。学校では、本当の自分を隠し、「完璧な優等生」を演じていることに疲れていた。その言葉の端々から、彼女の聡明さと、その裏側にある繊細で脆い心が透けて見えた。
僕は、僕で、自分の写真がマンネリ化していることへの焦りや、かつて中学受験で抱えていたプレッシャー、そして、解放されたはずの今も、どこか日常に満たされない虚しさを、正直に打ち明けた。
僕たちのDMのやり取りは、いつしか毎日の習慣になっていた。
学校から帰り、自室のベッドに寝転がって、スマホの小さな画面に映る彼女からの言葉を読む時間。それは、色褪せた僕の日常の中で、唯一、鮮やかな色彩を放つ時間だった。
『今日の写真、見ました。夕焼けの河川敷。なんだか、少しだけ泣きそうになりました。世界はこんなに綺麗なのに、どうして私の毎日はこんなに息苦しいんだろうって』
『分かるよ。僕も、ファインダーを覗いている時だけ、現実を忘れられる』
『「port」さんの写真があるから、私は明日も頑張れます。本当に、いつもありがとう』
彼女からの、その言葉。
それだけが、僕がカメラを手にし、写真を撮り続ける、唯一のモチベーションになっていた。誰のためでもない。ただ、顔も知らない『M』という女の子に、僕の視線を届けるために。僕は、シャッターを切っていた。
僕が、どうしても忘れられない思い出があることを、彼女に話したことがあった。
『中学受験の直前に、一度だけ、すべてを投げ出して知らない町に行ったことがあるんだ。そこで出会った、名前も知らない子たちと、ほんの少しだけボールを蹴った。その中に、太陽みたいな笑顔の女の子がいた。たった三十分くらいの出来事だったけど、その記憶が、僕を救ってくれたんだ』
『素敵な思い出ですね。その女の子は、「port」さんの初恋の人ですか?』
彼女は、少しからかうような口調で返してきた。
『どうだろう。恋だったのかは分からない。でも、僕にとっての「希望」の象徴みたいな存在なんだ。いつか、もう一度会えたらって、心のどこかでずっと思ってる。まあ、無理な話だけど』
送信ボタンを押してから、少しだけ気恥ずかしくなった。けれど、『M』は、そんな僕の感傷を、決して笑ったりはしなかった。
『きっと、会えますよ。その女の子も、きっとあなたのことを、どこかで覚えています』
その優しい言葉に、僕はどれだけ救われたことだろう。
もちろん、僕は『M』が、その「太陽みたいな笑顔の女の子」であるなどとは、夢にも思っていなかった。ただ、僕の一番大切な思い出を、同じように大切に扱ってくれる、心の優しい友人。僕にとっての彼女は、そういう存在だった。
僕は知らない。
僕が撮る一枚一枚の写真が、かつて僕を救ってくれた彼女の心を、今、支えているということを。
そして、僕が焦がれ続ける幻影こそが、スマホの画面の向こう側で、僕の言葉を待っている本人であるという、数奇な運命の悪戯を。
僕はただ、ファインダーの中に、あの日の幻影を探し続けていた。
夕焼けの空に、河川敷を走る子供たちの姿に、路地裏の猫の瞳に。僕は、無意識のうちに、彼女の面影を重ねて、シャッターを切っていたのかもしれない。
そして、その写真が、巡り巡って、本当の彼女の元へと届いている。
そんな奇跡が起きていることなど、知る由もなかった。
(
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