第11話
「port」さんとの短いメッセージのやり取りは、まるで夢の中の出来事のようだった。私の送った返信に、彼から「そう言ってもらえると、撮っている意味があります。ありがとう」という短い言葉と、控えめな笑顔の絵文字が送られてきた。それきり、会話は途絶えた。それでよかった。これ以上を望むのは、贅沢というものだろう。
このささやかな奇跡は、私の心に、確かな熱を灯してくれた。
翌日、私は職員室へ向かい、担任教師に「進路希望調査票を書き直しました」と、新しい用紙を提出した。第一希望の欄には、迷いのない文字で「医進理系コース」と書かれている。先生は、安堵と憐憫が入り混じったような複雑な表情でそれを受け取った。
家に帰ると、母は「分かってくれて、よかった」と、涙ぐみながら私の頭を撫でた。父は何も言わなかったが、その表情が和らいでいるのが分かった。家族の平穏は、私の諦めと引き換えに、いとも簡単に取り戻された。
私の反逆は、失敗に終わった。
誰もが、そう思っただろう。私自身でさえ、表面的にはそう思っていた。
けれど、私の心の中では、全く違う種類の、静かで、しかしマグマのように熱い決意が、生まれつつあった。
きっかけは、父の書斎だった。
父に呼ばれ、書き直した調査票を見せると、満足げに頷き、そしてこう言った。
「それでいい。お前なら、日本で一番の大学だって目指せる。父さんも母さんも、全力でサポートするからな」
日本で、一番の大学。
父が口にしたその言葉が、私の頭の中で、不意にある一点と結びついた。
その日の夜、私は自室のパソコンで、静かにキーボードを叩いた。検索窓に打ち込んだのは、父が言った、あの大学の名前だった。
公式サイト、受験情報サイト、学生たちのブログ。私は、憑かれたように、あらゆる情報を読み漁った。そして、ある一つの記述に、私の目は釘付けになった。
『進学選択制度(通称:進振り)』
それは、入学時の学部に関わらず、二年次までの成績によって、三年次以降に進む学部を自由に選択できるという、その大学独自のシステムだった。
私の心臓が、どくん、と大きく鳴った。
さらに読み進めていくと、信じられないような事実が書かれていた。
『理科三類から、法学部や文学部など、文系の学部に進学することも、理論上は可能である』
理科三類。
それは、医学部進学を前提とした、日本で最も入学が困難とされる場所。父が、そしておそらく祖父も、心のどこかで私に進んでほしいと願っているであろう、最高の頂。
―――これだ。
全身に、電気が走ったような衝撃があった。
目の前の霧が、一気に晴れていくような感覚。
父が、母が、私に望む「最高の道」と、私が心の底から望む「自由な道」。決して交わることのないはずだった二本のレールが、この一点において、奇跡のように交差していたのだ。
もちろん、それがどれほど険しい道なのかは、想像に難くない。日本中の天才たちが集まる場所で、トップクラスの成績を維持し、そして、前例のほとんどないであろう、理系から文系への進路変更を勝ち取る。それは、ただ名門中学に入るのとはわけが違う、想像を絶するような戦いになるだろう。
けれど、それでよかった。
むしろ、そうでなければ、意味がなかった。
父は言った。「医者になるという、確固たる土台を築け」と。
ならば、築いてやろうじゃないか。あなたたちが望む、日本で最高の土台とやらを。その上で、私は、私の望む家を建てる。誰にも文句は言わせない。あなたたちの価値観で、私を縛り付けることは、もう誰にもできない。
それは、復讐心とは少し違っていた。
もっと、静かで、前向きな決意。
「port」さんが教えてくれた、「どこへだって、いける」という、あの言葉。それを、私自身の力で証明するための、壮大な挑戦だ。
もし、その頂にたどり着くことができれば。
私は、親の経済的な支援に頼ることなく、自分の人生を歩んでいけるかもしれない。奨学金や、アルバイト。方法はいくらでもあるはずだ。私は、初めて「自立」という言葉を、具体的な目標として意識した。
私は、パソコンの画面を静かに閉じた。
そして、本棚の奥から、中学に入ってからはほとんど開いていなかった、算数の、いや、「数学」の問題集を取り出した。
ページを開くと、そこには、無数の記号と数式が、まるで未知の言語のように並んでいる。けれど、もう、それは私を絶望させるものではなかった。
一つ一つの数式が、私を自由へと導いてくれる、魔法の呪文のように見えた。
私は、ペンを握った。
その手には、もう、迷いも震えもなかった。
誰も知らない。
父も、母も、友人も、先生も。
この瞬間、私の本当の戦いが始まったことを、まだ誰も知らない。
私の心は、驚くほど静かに、そして澄み渡っていた。
窓の外を見上げると、雲一つない、満月が浮かんでいた。その光は、まるでこれから私が進む道を、静かに照らし出してくれているようだった。
「port」さんの写真の中の空のように、青く、どこまでも広がっていく、私の未来。
その始まりを、私は、確かに感じていた。
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